芳賀地方への鉄道敷設は、常野鉄道・東野鉄道の計画が挫折する中で、今度は政府により計画が進められることとなった。政府は、明治四四年より軽便鉄道の敷設を打ち出し、その中に下館―真岡間の真館線の鉄道予定線があった。真岡線の敷設に当たっては、地元では土地の寄付を申し出るなど、積極的な対応を図った。真岡駅敷地の買収資金として三、〇〇〇円が集められ、荒町一、五〇〇円・田町七五〇円・台町五〇〇円・在部二〇〇円が寄付金として鉄道院に納められたという。
工事は、四四年一〇月一五日に開始され、途中の駅を折本・谷田貝・小橋・真岡に置くことが決定された。工事区間を八工区に分け同時着工するかたちで進められ、翌年の三月二〇日に終了し、四月一日に営業開始となった。開通式は、当時七井線の延長を考えていたため、全線開通後に行うとして中止されたが、真岡町では待ちに待った鉄道開通であったため、独自に開通祝賀会を開催し、開通の喜びに浸った。
第一期工事としての真岡までが完成すると、路線はさらに北へ延長され七井まで開通した。その後、路線は烏山か宇都宮か、それとも茂木へつなげるか、その延長先をめぐって誘致運動は活発化した。七井から先の路線については気のもめるところであった。常野鉄道のころから、計画は七井から烏山への路線であった。しかし、鉄道が七井まで延長されてきたところで、烏山か宇都宮か、それとも茂木か具体的決断が迫られた。大正三年に入ると、代議士友常穀三郎らは茂木鉄道の敷設免許を得たが、第一次世界大戦の勃発などにより延期となってしまった。その後、七年一二月一日の「下野新聞」に、内定した七井鉄道路線の敷設計画が発表された。それは「七井より烏山に至る鉄道敷設計画に今回鉄道院に於て左記の二線に変更内定したる由に聞く」として、(一)七井からの延長は茂木に達する路線とし、(二)別に東北本線の宝積寺駅より北高根沢村・給部付近を経由して烏山に達する路線を敷設するとなっている。そして九年に茂木まで開通した。一方、宝積寺から烏山への路線も具体的に表面化した。この路線決定には鉄道誘置をめぐる政友会・民政党の政治的利害もからんでいた(大町雅美著『栃木県鉄道史話』二六一頁)が、現烏山線の建設運動を促進する働きもあった。