開通時の東北線は、その後幾多の鬼怒川の洪水により多くの被害を受け、明治三〇年(一八九七)現在の路線に変更された。これによって、氏家駅が新設されると、南那須地方に鉄道敷設の動きが始まった。まず、喜連川町が人車鉄道敷設に乗り出し、三五年に開通にこぎつけた。さらに三二年に宝積寺駅が開業すると、烏山町は三四年に人車鉄道の計画に乗り出した。
東北線の路線変更による宝積寺駅の開業は、鬼怒川左岸に駅ができることにより、南那須・芳賀地方に大きな刺激を与えた。烏山町は、地域の死活をかけて水戸鉄道への接続とともに東北線への鉄道敷設を模索する。
その現れが、三四年の烏山人車鉄道の計画である。先に述べた宝積寺―祖母井間の宝積寺人車鉄道の計画よりもやや遅れての計画であったが、県内の人車鉄道敷設のピークの時期であった。
烏山より宝積寺駅の達する烏山人車鉄道の計画は、烏山町の小林初太郎ほか沿線の有志二〇余名が、三月一〇日烏山町吐楼で開いた発起人会から始まった。宝積寺合資会社社長の矢口縫太郎を座長として、目論見書及び定款を議定し、さらに創立委員一七名を選出した。そして、創立事務所を烏山及び宝積寺の二か所に置き、その月の二五日までに発起人となるべき者の氏名と引受け株数を決定したうえで、特許の出願をする(「下野新聞」明治三四年三月一五日)手はずであった。発起人の中心メンバーは、宝積寺側が矢口縫太郎・鈴木良一・小池与一郎、烏山側は島崎善平・大橋清吉の五氏で、この烏山人車鉄道は双方の利害の一致の中から計画されたものであることがうかがわれる。
さて、目論見書・定款からその概要をみると、社名を「烏山人車鉄道株式会社」と称し、烏山町より宝積寺駅に達する人車鉄道を敷設し、旅客及び貨物の輸送を目的とするものであった。さらに、本社を宝積寺に置き、資本金を一二万円とし、これを二、四〇〇株に分け一株五〇円とした。また、建設に当たっての距離は約二一キロ、レールの大きさは約六・三五キロの一四ポンドレールを使用し、軌道幅を約七九センチとする計画であった。また、収入二万七七六〇円に対し、支出八、六五〇円とし、二、一一〇円の純益を見込むとともに、株式三〇株以上の所有者に限り無料乗車の優待を設けた。
こうして、特許出願を六月中旬とし、工事落成を遅くとも三四年末と見込んだ。しかし、その後の推移を物語る史料はなく、どの時点で中断したかは不明であり、この烏山人車鉄道も幻の鉄道に終わってしまった。