この時点で、烏山在住の島崎善平らは、烏山―宝積寺駅間の烏宝線の敷設か、真岡線の延長による烏山への乗り入れかの二股をかけていた。事実、五年の軽便鉄道敷設請願書には、「先に七井線延長請願幸に採択を得たるも、ここに烏山鉄道会社敷設権失効確定の上はこの儘放置せんか、地方開発上まことに忍び難く、依って此際、宝積寺駅より烏山町に至る。又は七井線の延長線何れか軽便鉄道速成を希望して止まない次第なり」と述べている。
こうして、烏宝線と真岡線の延長の二つの計画については国に下駄を預けるかたちとなり、この二路線は政治の場に委ねられ、決着がつけられることになったのである。
また、烏宝線の着工については、本県出身の衆議院議員で政友会の横田千之助の存在が大きい。横田は茂木鉄道の開通に貢献し、茂木町を憲政党の地盤から政友会へ引き寄せるために、鉄道を武器とした。また、烏山においては烏宝線の着工ということで、政治基盤を固めていった。この点を見ても、鉄道がいかに地域に及ぼす影響が大きいかが伺える(大町雅美著『栃木県鉄道史話』)。
図26 烏山線請願の記事(「下野新聞」明治44年3月19日)