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烏宝線か真岡線の延長か

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 大正期に入っても烏宝線の建設は、遅々として進まなかった。その間、先に述べた東京在住の岡本文平らによる烏山鉄道株式会社の宝積寺―烏山間の鉄道路線敷設計画は、地元にとっては重大な関心事であったが、これは計画のみで実現には至らなかった。大正五年(一九一六)二月二八日付で「真岡軽便線栃木県芳賀郡七井駅より栃木県那須郡烏山町を経由して茨城県久慈郡大子町に至る軽便鉄道延長布設請願書」が貴族院・衆議院両院長宛に出された(『烏山町誌』)。そして、その発起人は烏宝線の発起人でもある島崎善平らであった。その内容は、前回の烏宝線敷設請願書と同じように、林産物・農産物・特産物の輸送のために、近年開通した真岡軽便線の七井駅より烏山―馬頭町を経由して大子町へ路線を延長し、さらに将来は白河―水戸間の予想局部線(現在の水郡線)に連結するというものであった。また、西那須野駅から黒羽までの東野鉄道とも連結する考え方が示されていた。さらに、一二月一八日には内閣総理大臣・鉄道院総裁あてに同様の「軽便鉄道敷設請願書」が提出された。
 この時点で、烏山在住の島崎善平らは、烏山―宝積寺駅間の烏宝線の敷設か、真岡線の延長による烏山への乗り入れかの二股をかけていた。事実、五年の軽便鉄道敷設請願書には、「先に七井線延長請願幸に採択を得たるも、ここに烏山鉄道会社敷設権失効確定の上はこの儘放置せんか、地方開発上まことに忍び難く、依って此際、宝積寺駅より烏山町に至る。又は七井線の延長線何れか軽便鉄道速成を希望して止まない次第なり」と述べている。
 こうして、烏宝線と真岡線の延長の二つの計画については国に下駄を預けるかたちとなり、この二路線は政治の場に委ねられ、決着がつけられることになったのである。
 また、烏宝線の着工については、本県出身の衆議院議員で政友会の横田千之助の存在が大きい。横田は茂木鉄道の開通に貢献し、茂木町を憲政党の地盤から政友会へ引き寄せるために、鉄道を武器とした。また、烏山においては烏宝線の着工ということで、政治基盤を固めていった。この点を見ても、鉄道がいかに地域に及ぼす影響が大きいかが伺える(大町雅美著『栃木県鉄道史話』)。

図26 烏山線請願の記事(「下野新聞」明治44年3月19日)