紆余曲折を繰り返しながら、烏山は烏宝線の建設へと動き始めた。しかしその中で、路線は南線としての給部を経由する案と中央線として北高根沢を通る案、そして北線として阿久津・熟田を通過する案が出された。
この中で、鉄道院の技師による調査が行われ、結果として大正八年一〇月に烏宝軽便鉄道路線は北線と決定し、中間の駅は熟田村文挾と荒川村小倉の二か所に決められた。しかし、路線が決定した後も工事着手の動きが見られず、住民においても心配する向きがあった。しかし九年九月三〇日付の「下野新聞」において「烏山宝積寺間鉄道稲作刈取り後工事に着手」の記事が見られた。内容は、高田転平代議士が東京事務所の久保田所長からの報告として、烏山―宝積寺間の鉄道工事が決して延期されることはなく、第一期工事となる宝積寺―文挟間の土地買収準備が終了し、近々買収に着手するとともに起工認可となっており、稲刈り後に工事着手する運びになっているというもので、併せて荒川架橋に要する鉄材も宝積寺駅に到着をしているといった内容であった。
そして工事は翌一〇年二月一日から宝積寺側より開始され、烏山方面は小林組が請負、一〇月一五日には烏山小学校において起工式が挙行された。
その後、工事は順調に進み、開通式は一二年四月一五日と決められた。こうして、阿久津村―北高根沢村―荒川村―向田村を経て烏山町に至る烏宝線は竣工を迎えるが、停車場として熟田(後に仁井田となる)・大金・烏山の三駅を新設し、工費一七九万一〇〇〇円を要して完成した。