開通だけは、予定どおり四月一五日に行われ、開通式は五月一日午後一時三〇分より烏山停車場前広場にて挙行された。この日、大アーチが停車場入口角及び仲町・金井町の三か所に設置され、軒提灯や国旗が揚げられ開通式の気分を盛り上げた。来賓者や見物人は列車が到着するごとに多くなり、各駅は列車に乗り切れぬほどの混雑で、午後になるとより一層の人出となり、停車場前は「人を以って埋まり物凄き程の雑踏を呈した」と「下野新聞」は報じている。
式には、元田前鉄道大臣をはじめとして横田千之助代議士・高田耘平代議士・松永県議会議長など数百人が出席した。
ここで、川俣烏山町長は式辞の中で「本鉄道は明治二十八年常野鉄道株式会社を計画し失敗に終わり重ねて計画し之れ亦不成功に終わり大正七年漸く政府の容るゝところとなり此処に三十年来の宿望を得たものなり」と述べた。また、工富東京鉄道局長代理は「工事と資金の関係より第一期計画より三十年を要せしも此処に工成り之を開通前と比するに汽車にて宝積寺より三十三銭一時間にして足り尚賃金安く大量の運搬に堪えるとて沿線の此鉄道利用を促し尚水郡線の竣工を見たる上は連絡せしむる事に最善をつくされたい」と述べた。多くの来賓の祝辞は、長年の悲願の結晶と今後の可能性・期待が述べられた。
こうして、式は午後二時に閉式となり、二時よりただちに園遊会に移り、千人近い人々が立食により芋串やおでんを食した。また、小学校児童は午前一〇時より旗行列を行い、余興として手踊神楽が踊られた。夜はアーチにイルミネーションが灯され、烏山中学校生徒の提灯行列が行われた。
ちなみに、午後三時までの烏山駅の乗降人員は乗車一、〇八六名、降車一、六六七名を数えた(「下野新聞」大正十二年五月二日)と伝えられている。
宝積寺―烏山間には、開業と同時に熟田・大金の二駅ができ、下野花岡・鴻野山・小塙の各駅は、昭和九年八月一五日に開業した。熟田駅は、当初熱田村文挾の集落付近に設置する予定であったが、丘陵地に近すぎるため、駅で停車した汽車がすぐ坂を登ることは、当時の機関車では難しいと判断された。それで八〇〇メートル西に寄った現在地に設置されることになった。また、駅名が愛知県の「熱田」と混同しやすく誤配を招くとして、後に「仁井田」と改称された。当初の所要時間は約一時間、料金三三銭で、汽車により午前四往復・午後三往復で運転された。
なお、開通前までは、地元および新聞は「烏宝線」という名称を使っていたが、開通後の鉄道関係の資料では「烏山線」の名となり、今日に至っている。
下野花岡の停留所は、昭和一六年八月一〇日にガソリンカーの停車が停止され、機関車は朝夕の通学の時間のみ停車するというように改正されてしまった。このため沿線住民は陳情・嘆願書を出し、下野花岡付近には菅又医院・阿久津医院・小林内科医院などがあり、患者に対して大変な不便を来たしているとして、復活を強く要望し、停車を実現した。
なお、昭和四三年、国鉄諮問委員会小委員会にて廃止対象の赤字ローカル線として全国で八三線があげられた。その中に栃木県では真岡線と烏山線の二線が整理すべき路線として発表された。これに対して、烏山町をはじめとして沿線町村は共同して烏山線廃止反対運動を展開した。六月には「国鉄烏山線廃止反対期成同盟会」の設立準備会が、烏山町・南那須町・高根沢町により呼び掛けられた。同盟会は、七月三日に発足し、栃木県宇都宮市・河内町・烏山町・南那須町・高根沢町・市貝町・茂木町・小川町・湯津上村・馬頭町と茨城県の緒川村・美和村・大子町の一三市町村をもって組織された。こうして、猛烈な反対運動により、烏山線は存続し現在に至っている。
図27 烏山線開通55周年を祝う仁井田駅
図28 烏山線の距離標(宝積寺駅構内)