皇室関係では明治天皇から大正天皇に代わったので天皇の「御真影」が配布されたことが記されている。大正四年(一九一五)一〇月二九日石崎校長は村役員と同行、塩谷郡役所で「御真影」を拝受し、校長が捧持して帰校し御真影所に安置し奉戴式を行っている。翌五年一〇月二九日同じように皇后陛下の「御真影」を拝受し奉戴式を行っている(皇后「御真影」が大正五年になったのは大正四年春懐妊のため写真がなかった。)。また、一一月三日には立太子礼拝式が役場吏員、村会議員、在郷軍人団、青年会員ら約一〇〇名で挙行している。皇太子が大正一〇年三月二日、渡欧するのに際し職員生徒一同はそれを祝福するため授業は午前で終わりにしている。また、阿久津小学校は東北本線の宝積寺駅が近い関係で宮様の駅通過の際はそのつど奉送迎にあたった。大正五年八月二〇日淳宮、高松宮が福島県下翁島より日光にこられる際、校長以下教員、生徒約一〇〇名が駅で送っている。二二日、日光からの帰幸に際しても同様に送っている。当然、他の皇族たちの通行の際、同じ事がそのたびごとに行われていた。
このようななか、社会的に注目すべき記事もみられる。大正八年四月九日の日誌には、「第一四師団出征ニテ当駅通過ニ付見送リヲナス」との記事が誌されている。この二日前には「明九日ヨリ第一四師団シベリア出兵ニツキ見送り方法ニツキ校長、役場ニ出張協議ス」と誌されている。シベリア出兵については村役場、学校とも強い関心をいだいている。シベリア出兵はロシア革命後のロシアに対する干渉戦争であった。大正七年(一九一八)日英が居留民保護の目的で、その後チェコ軍救済に限定して出兵し、八月一二日日本軍はウラジオストックに上陸を開始した。宇都宮第一四師団の各部隊は大正八年四月八日から二六日の間に宇都宮を出発し、青森港からウラジオストックに向かった。九日には「第一四師団出征ニテ当駅通過ニ付見送リヲナス」と記されている。以後、同じ内容の記事が四月一七日、一九日、二五日、二六日と続いて記されている。
日誌のなかにはその時代を示す社会問題が何点か散見できる。米騒動関係の記事は見受けられなかったが、米の安売りを要求する大衆運動がおさまった大正九年一二月二七日の日誌には「午後米価引上げノ村民大会ヲ当校ニ開催セリ」とある。米騒動で米価が引き下げられ、農民の生活が苦しく、反動としての農民の声がこのわずかな文中からもよみとることができる。また、日誌のなかで連続して同一内容記事がのったのは関東大震災に関するものである。
九月二日、本日ハ二百十日ナルモ快晴、昨日ノ地震ニハ被害アリ、東京、横浜全滅ノ報アリ
九月四日、罹災救助ノタメ小池校長役場ニ出向ス、本村青年団員三〇名救護ノ為メ川口町ニ出向ス
九月五日、小池校長罹災民救助ノ為メ停車場ニ出向
九月七日、罹災民救助ノ為メ、処女会員本日ヨリ出動ニツキ増渕女訓導指導トシテ停車場ニ出向ス
九月八日、福田訓導、停車場ニ罹災民救助ノ為メ出向ス
九月九日、罹災民救助ノ為メ駅前ニ出向ス
九月一〇日、松本訓導罹災民救助ノ為メ駅前ニ出向ス
九月一五日、児童ヨリ義捐金徴収ス
記事は簡明にかかれているが、教員が連日駅に出向している記事から多くの罹災者が宝積寺を通過していることは明らかで、ことの重大さを垣間みることができる。
記事のなかには大正一二年一一月一一日に「宝積寺グランドニ塩那少年野球大会アリ」といった野球の記事はめずらしく感じた。また当時の季節は厳しく桜の花は四月中旬になって満開になったようだ。一〇年四月一三日に「校庭の桜花チラポラ咲初ム」と記されている。
多くの事件があったなか、デモクラシーの時期とし、新しい動きが台頭した大正時代も一五年間で終りを迎えようとしていた。大正一五年一二月一六日には「午前一一時校庭ニ登壇ヲ設ケ聖上陛下ノ御平癒祈願ヲ執行ス、学校児童、訓練生、区長、議員、学級委員有志」とある。大正天皇の病が急変したことが新聞にあらわれるようになった。一二月二五日の日誌には次のように記されている。
聖上陛下
大正一五年一二月二五日午前一時二五分崩御セラル、直ニ摂政宮皇位ヲ継承セラレ、年号ヲ昭和ト改元ス、
二七日奉悼式並ニ還拝式挙行ニツキ児童召集方ヲ各区長ニ依頼状ヲ発ス、
こうして時代は大正から昭和へと移っていった。
図29 シベリア出兵兵士の宝積寺駅通過の記事(阿久津小学校蔵)