学校、家庭間の連絡を計り、学校教育の実をあげ、兼ねて社会教育に資するため明治末期、高根沢町域内の小学校に「父兄懇談会」が設けられた。大谷小学校では明治四二年(一九〇九)一月三〇日に第一回父兄懇談会が開かれた。会には学務委員阿久津勝太郎、区長回谷毅一郎、訓導細栄次郎の三名が発起人となり開会した。この会には村会議員阿久津強平、新任区長阿久津乘平及び各組総代等が協力し、父兄約八〇名が参加した。外部からは郡視学、郡農会長、村長野沢辰之助ほか吏員、村内小学校長が臨席した。
北高根沢尋常高等小学校でも明治四三年(一九一〇)一月二一日、学事関係者及び四大字の区長が集まり、規則草案に賛成し、父兄懇親会が同年二月二六日に開会した。郡長、県の役人、郡視学らが臨席し父兄を主に二〇〇余名の参集者を得て盛会裡に終わった。九月一〇日には第二回の懇親会が開催された。郡視学、村内小学校長、父兄は三時間の授業と学校施設の参観をした後、和やかに懇親会を行った。
こうした懇親会のやり方に変化が現れたのは大正期に入ってからである。大正二年(一九一三)三月二一日、第五回の父兄懇親会では、生徒の学芸練習会が開かれ多数の参加者をみた。このような催しは創立以来はじめてのことで新たな内容の懇親会となった。終わって父兄と職員との懇談がみられ、従来みられた役人、他校からの参加もなく、学校独自の父兄との懇談会が行われた。翌年も学芸練習会が行われ、参加者は百数十名に達し、懇親会では生徒の教養についても話し合いがなされた。大正八年に学校側は学校の状況を説明し、生徒の身体状況、家庭と学校との連絡の重要性、家庭に対する希望、敬神崇祖の涵養、生徒の携帯品などについて話し合いがなされた。大正九年には、奉公貯金、小遣銭を与えぬこと、トラホーム児童の治療の件、学用品の節約、自学自習の習慣を養うことなど、より具体的な内容についての話し合いが行われた。
これらの会の運用費は、発会の時の寄附金六六円五銭を順次活用していった。第一回には二三円二八銭を支出したため剰余金四二円七七銭、そのうち四〇円を基本金とし、年利一割二分で保管し、以後の費用は基金の利子及び他結社よりの寄附金などで会の運営が行われた。