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小学校の授業と行事

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 ここでは明治末期から大正期にかけての北高根沢尋常高等小学校でどのような授業と行事が行われたかをみることにする。小学校はどのような時間割で授業をしていたのだろうか。ここに尋常一年、四年、五年生のものをあげておいた。(表8)注目されることは全学年を通し国語が圧倒的に多く、四年生は一週間に一四時間で全授業数二九時間中、約半数を占めている。いかに国語教育が重視されていたか知ることができる。次いで算数が多く六時間であるが注目されることは授業が一時間目、二時間目と早い時間に集中していることである。また修身も一時間目に行われている。女子生徒に四年生から裁縫の時間があることも注目される。地理・歴史、理科は五年生から行われ、一年生から四年生までは徹底した基礎学力の充実にあたった。
 運動会は明治三四年一一月一〇日、太田向原で開催、四一年には五月八日に校庭で行われた。数年間実施できなかったのでその時の運動会は生徒も珍しく感じていた。父兄の来観者も多く経費は二七円四三銭で村費の補助、児童の拠出金、有志の寄付によって運営された。明治四三年の運動会は開始以来三年目で規模も拡大し、有志より一二一円九〇銭の寄付を得、動作が活発で、規則正しく「確ニ村落ノ運動会トシテ模範タルニ恥ジストノ感アリ」といったもので、運動会を撮影して絵葉書三枚を作り有志に配付するほどの内容であった。大正三年は明治天皇の死去による喪に服し開催されなかったが、その後毎年挙行された。
 修学旅行は明治四一年より開始された。それ以前三八年一一月四日。高等科生徒八〇余名が日光町に旅行し山内を見学、会津屋に宿泊して翌日帰校している。明治四一年には一〇月一七日五年生以上の生徒一二〇名が宇都宮へ旅行し、歩兵五九連隊の兵舎及び栃木県師範学校の校内を参観し日野町の都賀館に一泊し翌日帰校した。その経費は五〇銭であった。一四師団の開庁式は明治四一年一一月二〇日に宝木練兵場で行われ、翌四二年五月二〇日に五九連隊の移転が完了している所から、生徒たちのみた兵舎はまだ入舎しない建物をみたと思われる。はじめて東京に旅行し皇居を見学したのは翌四二年三月二七日で高等科卒業生徒一一名であった。浅草館に二泊して帰校した。東照宮、華厳滝、中禅寺湖までの遠足は四二年九月二九日、五年生以上の生徒たちであった。翌四三年には塩原へ旅行し、福渡の磯屋に二泊して帰校した。その後五年生以上は日光に、高等科生徒は東京に旅行している。学校生活でも明治四一年ごろから今日の運動会、修学旅行などが実施されるようになったのである。

図31 大谷小学校朝礼風景(大谷 阿久津純一提供)

表8 授業の時間割
尋一
 
 




1
2
3
4

尋四
 
1
2
3
4
5

尋五
 
1
体唱
女男


裁図
女男

2
体唱
男女
体唱
女男
唱体
女男
3
4

女男
5