桑窪小学校は明治一七年(一八八四)扶桑館として呱呱の声をあげた。その後、廃止、分合をくりかえし明治三三年(一九〇〇)北高根沢尋常高等小学校桑窪分教場から桑窪尋常小学校として独立した。その後義務教育年限延長にともない従来の校舎が狭くなり、明治四三年五月一九日新築校舎を完成した。この時期にあわせて同年一一月に種々の学校運営・生徒指導に関する内規が制定された。職員関係は、職員心得一一条、職員服務規程一二条、職員執務規程一二条、職員意見簿五条、成績考査規程一〇条、操行査定規定五条とある。各規定の主な内容をみると「職員心得」では、教育勅語の趣旨を奉戴し、つねに道徳的情操を養い、実践躬行を期すと第一条に記されている。授業については形式にはとらわれず、実践を主として、中位の児童を標準にし学力の平均化を図るとしている。「服務規定」では始業三〇分前に出勤し、下校は修業後一時間と定められている。すべてが校長の指示なしでは行動できず、授業の変更、役所への書類提出、保護者の呼出しにいたるまで校長なしでは動けなかった。「執務規定」は授業案の作成、担任クラスについては全力をあげて教育すること、生徒の欠席が一週間に及ぶ時は校長に直ちに連絡すること、昼食はつねにクラスの児童と共にし、児童を監督すること、作法を教授することが記されている。その他「成績考査規定」、また「操行査定」では担任はつねに生徒の言語、挙動に注意するようにし、その基準も甲(操行優良で、他の模範となる)乙(善良なるもの)丙(普通のもの)丁(不良のもの)に決められ、「平素、成績優良なりと雖ども操行不良なるものは進級せしむることを得ざるものとす」と決められている。生徒の成績、生活行動等について、良いことには「児童褒賞規定」で、懲罰関係には、「児童戒飭規定」が設けられていた。
生徒自身の校内での活動については「児童週番規定」があり、生徒の自治、勤労の習慣を養うために各学級に週番二名がおかれ、次のような仕事に当たった。
①教室の採光、通風を計ること、②教室の出入、終始の敬礼、③掃除の当番を指揮して教室及び廊下を掃除すること、④教授用具を整頓すること、ほかに校内外の清潔、先生の命令を生徒に伝達することなど、校内にあって積極的に先生に協力体制をとった。
明治期、特に明治四一年(一九〇八)戊申詔書発布以来、国家主義的傾向が教育界に浸透したことは明らかで、学校では校長を主体としたピラミッド型体制がしだいに強化されていった。とくに職員の服務、執務関係が細かく規定されている一方で、生徒個々の行動には現在の「生徒心得」のような細かな規定がみられないのは一見奇異な感を与えるようである。これらの「内規」は明治後期に制定されており、当時の教育の一面をみることができる。