農村の青少年を対象とする教育機関として農業補習学校が開設された。この学校は実業補習学校の一つとして明治二三年(一八九〇)の小学校令からその名称は登場した。内容は小学校の義務教育の補習と簡易な生活上の基礎的知識や技能を授ける職業教育であった。明治二六年に規程が制定され、その充実は、明治四二年ごろからの地方改良運動の一環として県当局によって積極的に設置を奨励された。
北高根沢村では、明治四二年、助役見目辰三郎、村会議員菅又角一郎、農業指導員岩原孫作らが協議し、一村青年の知識を進め風紀を改善する必要を認め、明治四二年五月実業補習学校の規定に基づき、校則を知事に申請し、六月四日付で北高根沢尋常高等小学校に付設が認可され、一二月一日より開校した。大正期に入り、村是を通して実業教育が叫ばれたが、具体的対応はなく、すでに開設された実業補習学校も休校状態であった。村長見目辰三郎は、地方青年の修養のため実業思想を養成し、公民たる素養を備え、ひいては農村改良に資する人材を養成する方法は農業補習学校の振興が第一と考え、村立実業補習学校の復活を図った。そのために生徒の勧誘を図り夜学校などを開始していった(史料編Ⅲ・一一〇六頁)。北高根沢村村是は特に産業教育に力をいれたが、具体的には、併置校に農業補習学校をおき、農家の子弟に農業に関する一般知識の普及を図った。阿久津村でも大正八年一月九日、各字小学校の補習学校で夜学校を開始し青年団員を指導する計画であった。大谷実業補習学校は大正六年九月一三日の村会で可決され大谷尋常小学校内に付設された。授業は大正七年一月二四日に開始された(大谷分教場「学校沿革誌」)。熟田村でも熟田、文挾、松山新田の三校が大正七年一月八日より授業を開始した。文挾農業補習学校では大正七年五月二二日より三日間、補習学校指定農業作業にあたり、水稲、胡瓜、茄子、大根、甘藷、牛蒡、人参の七種を試作した。
栃木県では大正一〇年(一九二一)に実業補習学校の充実を図るため「実業補習教育費補助規定」を定めて、専任教員の配置や教員を増員する学校に補助金を交付することにした。翌年の栃木県会で「小学校ニ実業学校ヲ併置スル意見書」を提出し、その中で「県立中等教育機関ヲ設置セル土地ヲ距ル二里以上ノ村落ニ於ケル各小学校ニ実業補習学校ヲ併置シ」各地域の少年に同じように教養を高め、能力を開発すべきだと述べ、これを決議している。このころから実業補習学校は青年団活動とともに小学校卒業後、二〇歳までの勤労青少年に義務教育的内容を与える学校となった。
北高根沢村では大正一〇年一二月二六日付で農業補習学校の学則改正認許申請を知事に提出している。その学則によると、目的は「小学校ノ教科ヲ卒ヘ農業ニ従事スルモノニ対シ、国民道徳ヲ涵養シ、且ツ農業ニ関スル知識技能ヲ授クルト共ニ、国民生活ニ須要ナル教育ヲナス」となっている。学校は前期・後期で学級編成は男子は前期・後期を各一学級とし女子は前・後期を通して一学級とするとなっている。教科目は修身、国語、算術、農業で、女子には家事、裁縫を加えるとなっている。教授面をみると、教授期間は通年制で毎週二日以上を出席するとなっており、毎日の授業時数は、二時間ないし三時間とし、一か年間の授業時数は二〇〇時以上となっている。男子は農業が主で、女子は裁縫が主であった。始業時間も二期に分かれ、四月一日から九月三〇日までは午後二時始業、一〇月一日より翌年三月三一日までは午後三時始業となっているが、女子は午前九時始業と男女の始業時間は分けられていた。しかし村が期待したほど多くの就学者はなかった。
この実業補習学校は昭和三年を迎えた頃、交通の便が悪いこと中等諸学校の増加、それに加えて経済的不景気により就学率は低下し、前途に危機感がいだかれるようになった。村議会は昭和四年二月に実業補習学校の校名変更を緊急動議にかけた。理由について従来の学則は高等科卒業程度の者を修学させるものであったが、これを尋常科卒業程度にし、広く国民生活上必須の実業教育を与えることを目的とし公民実業学校と改称する決議が出され、議会では昭和四年二月二〇日提案を可決した。