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裁縫女学校

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 日露戦争後、「明治元禄」ともいわれる一般風潮がうまれ国家への忠誠心よりも個人の幸福を重んずる空気がひろがり政府や役人などの間には国運の進展をめぐり危機感がただよっていた。政府はこの風潮を改めるため、明治四一年(一九〇八)一〇月に「戊申詔書」を発布した。詔書は、国家発展を図るため職業、倹約にはげみ、浮わついた気分を除去することを強調した。その一環として夜学校、青年会、補習学校などの教育施策が大きく浮かびあがった。
 上高根沢の阿久津徳重は、当時の時代認識をきびしくとらえ、特に女子教育に強い関心をもった。こうして明治四四年(一九一一)二月、私立向戸裁縫女学校を開校した。開校に先立って二月一二日には女学校の生徒一四名は教員に引率されて上高根沢小学校に来校し、開校式の歌を篠崎先生について練習した。小学校との関係は密で、二月一五日(水)に向戸裁縫女学校開校式のため花瓶、椅子六脚、テーブルなどを貸し、午前一一時より職員児童一同開校式に参列した。開校式には知事の告辞、祝辞があり、その後阿久津徳重は答辞を述べている。彼は私財まで投げ出して裁縫女学校を設立したが、その意図する心情を考えてみることにする。彼は、我が国の女子教育がすこぶる発達してきたが、そこには「高尚ナル学理、技芸ノ修得ニ馳セ、実用ト遠ザカルノ憾ミナキ能ハズ」と考え、ここに中等以下の家庭に必須なる学術、技芸を授けてその欠陥を補おうとした(史料編Ⅲ・一〇八〇頁)。女子にとって実用である裁縫が軽視されがちな現実をみて実務主義の重要性を感じとったのである。修業年限本科は二年間で小学校卒業以上の者を入学させた。別科は農閑期を利用して一か年を四か月として二か年学ぶことにした。校舎は創立当初は庭先の空屋を仮の教室として発足し、教員には東京の裁縫女学校出身の山内ヤスが招かれ約二〇余名の生徒とともに第一歩を踏み出した(『高根沢町郷土誌』二〇九頁)。
 大正期に入って町村是運動が推進され、地方改良運動は急速に高まり、第五項目のなかに「教育の進歩を図ること」があげられ、青年団の活動を図ること、通俗教育の普及を図ること、実業補習教育の普及を図ることなどがあげられた。この一環として北高根沢村長は大正一一年(一九二二)三月に私立向戸とは別に村立花岡裁縫補習学校の学則認可申請をし四月一日から開校した。学校は小学校を卒えた女子に必要な裁縫、家事及び修身、作法、国語、算術、農業を教授し、その知識、技能、徳性を涵養し、あわせて善良な婦女を養成することを目的としている。修業年数は各二か年とし、学期は一般学校と同じ三学期で、一か年を四〇週とした。実業補習学校が十分な活動がみられない一方で、裁縫学校は一応の成果をあげていった。

図33 向戸裁縫女学校開校の祝辞(上高根沢 阿久津昌彦家蔵)


図34 小学校に設けられた裁縫補習学校の帳簿(上高根沢小学校蔵)