村の財政が悪化したのは北高根沢村も阿久津村も同じだった。阿久津村では大正一〇年ごろから村税の滞納が目立ちはじめていた。昭和四年に村長野沢辰之助は臨時書記を雇って大正一一年度から昭和二年度までの滞納整理を行った。未納総額三、三七二円五五銭のうち二、二九四円二八銭を徴収するのに成功した。延べ整理人員は二二二人に及んだが、翌年からの恐慌による滞納の増加を考えると、よい時期に滞納整理を行ったというべきであろうか。断片的な史料によると、昭和七年三、四六五円六〇銭、八年三、三一二円九一銭、九年二、八六三円五六銭の村税の未納があったが、村当局は村内にくまなく組織された納税組合へ奨励金を交付して、納税を督励したので、北高根沢村のように巨額になることはなかった。
阿久津村には昭和五、六年の行財政関係の史料がなく、北高根沢村のような予算の減額があったかどうかは不明であるが、聞き取りではそう大きな変動はなかったようである。大正一三、四年ごろの経常予算の規模も昭和七、八年のそれも四万五〇〇〇円~四万八〇〇〇円位で余り変化していない。また、村基本財産、小学校基本財産を始め各種積立金を下野中央銀行に預金していたことも北高根沢村と同じだった。ところが、昭和五年七月一一日から腸チフス患者が一一名発生(内二名死亡)、隔離病舎に収容して医者と看護婦三名を雇って治療にあたった。そして、この費用に当てるため村基本財産一、七〇〇余円のうち一、四〇〇円を銀行の休業直前の一一月六日に引き出した。また、昭和元年に村債八、〇〇〇円を発行して石末分教場の改築、運動場用地の買入れをしたが、その時、小学校基本財産の一部、奨学資金積立の一部計三、一〇〇円も運用していたので、銀行休業の影響を大きく受けることもなかった。そして昭和八年には村基本財産蓄積条例を除いて他の基本財産蓄積条例を廃止して財産の蓄積を村基本財産に一本化し、安田銀行宇都宮支店と宝積寺郵便局へ預け入れている。