ビューア該当ページ

下野中央銀行の休業

479 ~ 481 / 794ページ
 第一次世界大戦後一時好況の夢に浮かれていた日本経済は、大正九年の戦後恐慌で株式・商品相場が暴落し四月から九月にかけて一六九の銀行が取付けにあい、二一行が休業に追い込まれた。このころから政府は銀行の整理・合併政策に取り組み大蔵省は内務省とともに府県知事を動かして地方銀行の合併をすすめ始めた。
 大戦中・戦後の好景気の時期、県内の銀行は大正二年から一〇年の間に一二行が設立されて総数五七行に達していた。しかし、それらの銀行の大部分は小資本で景気変動に耐えられる力はなかった。大正四年には資本金一〇〇万円以上の銀行は足利、宇都宮、下野、栃木県農工の四行だけで、資本金五〇万円以下は三二行、全五五行の五八パーセントであった。
 大正一二年(一九二三)に入ると知事は県内五四行の頭取、専務の懇談会を開いて合併を強く要請した。こうした中で、四月に日光の西沢金山への不良貸付けや古河銀行との合併で不良資産を背負い込んだ下野銀行に取付け騒ぎがおき、五月に休業した(昭和三年解散)。下野銀行の休業は県下の銀行に大きな影響を与え、銀行合併の動きが加速された。そして、翌一三年五月知事は再び頭取・専務・支配人を集めて、大蔵省銀行課長同席のもとに銀行合併を要請した。この時県は資本金一〇〇万円の銀行をつくること、資本金の九〇パーセントは合同参加銀行、一〇パーセントは発起人が引き受けること及び設立委員は知事が指名することを明らかにした。そして、県内務部長の下に銀行合同問題委員会(委員一六名)が発足した。委員の中には見目清(下野実業銀行)、鈴木良一(喜連川実業銀行)、加藤正信(佐久山実業銀行)らも入っていた。
 この銀行合同計画は各銀行の考え方の違いもあり合併参加銀行が減り、一四年(一九二五)二月、鹿沼、宇都宮、下野実業、喜連川、烏山産業、今市の六銀行が合併して宇都宮市に下野中央銀行(資本金一、三九〇万円、頭取上野松次郎)を設立することになった。宇都宮、上都賀、塩谷、那須の広い地域をカバーする県下最大の銀行の誕生だった。以後、県内の銀行は下野中央系、足利銀行系、独立系に別れ、それぞれの道を歩むことになった(『足利銀行史』足利銀行調査部編参照)。
 下野中央銀行は県内外の三五か所に本・支店を持ち県金庫となったほか、宇都宮市をはじめ六一市町村の公金を預かった。そして、町域では宝積寺、仁井田、上高根沢に支店を開設したので北高根沢村、阿久津村、熟田村も村基本財産や各種積立金等の口座をここへ移し、村の公金の預け先とした。ところが、昭和恐慌が農業恐慌の様相を深めてきた五年四月に矢板銀行、栃木銀行が破綻すると、下野中央銀行の経営に対する不安がささやかれ、ゆるやかな取付けにあうようになった。理由は合同した銀行の債券が不動産担保に偏り、その価格の査定も甘かったこと、合同後重点を置いていた旧貸出金の回収が不況続きでうまくいかなかったことなどが指摘されている。米価が急激に下落した一〇月には預金引き出しも増加した。三菱銀行、栃木県農工銀行、日本勧業銀行からの資金援助でもこの苦境を乗り切れなかった。大蔵省、日本銀行に救済を求めたが不成功に終わり、遂に一一月二〇日から三週間の臨時休業に入った。県内にはいろいろな噂が流れ、金融も混乱した。同行役員は自分たちの金を出し合って年末に一〇〇円以下の小口預金者への支払いを行った。ついで市町村の公金の支払い方法について話し合いがもたれていった。

図4 県民の期待を集めた下野中央銀行創立の記事(「下野新聞」大正14年2月2日付)