本村の指定銀行だった下野中央銀行高根沢支店並びに本店休業以来今日まで一二〇余日を経過したがいまだ開業のはこびに至らず、本村各種預金の回収をみないのは遺憾である。本村は(中略)銀行と再三交渉を重ねたが具体化しないため、銀行と最も深い関係を有する本村の見目清氏に預金回収の援助を相談した結果、同氏所有の財産で本村預金と相殺することで土地購入の協議が成立した(中略)。
一 田一三町一反一畝二五歩、一反当り五〇〇円、此の価格金六万五五九〇円
一 畑 三町三畝二八歩、 一反当り三〇〇円、此の価格金九、一一七円
一 山林原野二反六畝二四歩、一反当り三〇〇円、此の価格金八〇一円
一 宅地四、三三九坪、 一坪当り一円六六銭七厘 此の価格金七、二三〇円
価格の総計は八万二七三八円
右価格を以て本村各種預金に昭和五年度利子六分五厘に加え更に現金三、〇〇〇円を増加した額で土地購入の決議をして欲しい。また、五年度歳計金と庁舎改築積立の預金は銀行に現金での返還を求めるので、それについても合わせて決議して欲しい(資料編Ⅲ・二七四頁)
この報告について預金総額(預金+利子+三、〇〇〇円で八万二五一一円五四銭)と土地代金の差額をどうするか等の質問もあったが、預金回収の困難さを考えると不動産と相殺という方法で村の財産を守れたことを、不幸中の幸いとする意見が大勢を占めた。
こうして北高根沢村は指定銀行の休業という危機を乗り切ることができた。下野中央銀行はこの後、昭和九年から三年間で預金払戻しを行うことを決め、同一〇年に中央商事(株)に改組したが、一一年八月に支払いを終わった。
この恐慌の渦中で、下野中央銀行と同時期に阿久津徳重が頭取をしていた下野産業銀行(大正九年設立・資本金一五〇万円、払込資本金五二万五〇〇〇円、本店矢板町、支店上高根沢、氏家、下江川等五店)も取付けにあい休業し、昭和七年塩那商事(株)と業種替えした。この銀行は藤原町の指定銀行で町の公金を預かっていたが、預金を払戻すことが出来ず、頭取の阿久津が自分の土地(字塚原の一〇町歩余)を提供して相殺した。藤原町はこの地を小作地として阿久津に管理を依頼していたが、戦後の農地改革で小作人に解放された。
図5 下野中央銀行の休業を報ずる記事(「下野新聞」昭和5年11月20日付)