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農村救済運動

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 昭和五年(一九三〇)から六年にかけて暴落した農産物価格は、宇都宮市の相場で、米は一石二二円六〇銭から一六円五二銭へ、小麦は五円八八銭から四円八銭へといずれも恐慌期の最低となった。昭和七年に農林省が調べた農家負債は一戸当たり八三七円にのぼっていたが、本県農家の負債はそれを上回り一戸当たり九六六円だった。こうした窮乏の中で、租税の滞納から町・村政の運営に苦労していた町村長・農会長らは昭和五年五月二〇、二一の両日、宇都宮の下野中学校講堂で県下農会大会を開いた。大会では「困窮の極にたっせる農家の経済を救済する要道は農業主要生産物価格の安定を図るの他あるべからず」として、「政府は米価基準を定だむるに其の生産費をもってせられんことを要望」する農林大臣への建議書や「刻下蚕糸業の難局に対し農会並に養蚕家の執るべき方策」などを決議し、農林大臣、帝国農会長、栃木県知事などへ陳情書や建議書を提出した(「下野新聞」昭和五年五月二一日)。また、同年一一月八日には県公会堂で町村長大会が開催されたが、その大会の宣言決議は農村の現状を次のようにのべている。
 
  わが栃木県の多数農業者は米麦作をもって生業となせり。しこうして今やその収益は僅かに生計を糊塗するに足らず、内は積年の負債に苦しみ、加うるに公費の負担また苛重をきわむ。特に悲惨といわざるべからず
 
 そして、不況対策として「公務員の俸給を減額し、恩給法の改正を断行する等公費負担軽減の方途を講ずる」こと、「農村民並に中小企業者の巨額なる負債に対し整理償還の方途を立つる」ことを緊急に行うよう要求した。
 恐慌が激化する中で世界はブロック経済圏に分裂し、「持たざる国」日本、ドイツ、イタリアは植民地再分割と海外市場を求めて軍事的侵略に乗り出した。日本は日露戦争以来権益を拡大していた満州の支配を確立するため、軍部と財閥の手で昭和六年九月満州事変を引き起こした。さらに、翌七年一月には排日運動の中心地・上海で日中の軍事衝突を起こした。国内では国家改造、満蒙進出、農民救済を唱える右翼勢力が台頭し、政財界の要人を暗殺して現体制を破壊しようとする血盟団事件もおきた。事変不拡大を唱える犬養首相は軍部を押さえることができないまま、五・一五事件で暗殺され、犬養内閣とともに政党政治も崩壊した。このような社会のテロリズムとファシズムへの傾斜の中で、救農運動は全国に広がっていった。