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救農議会と時局匡救事業

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 昭和七年に入ると、県内の各郡で町村長会や農会の農村救済決議が重ねられていった。そして、七月二〇日、下野中学校講堂で町村長会と農会の連合大会が開催された。大会では政府への要望事項として「農産物価格の引き上げ」「肥料価格の統制」「農村負担の軽減」「負債整理」など九項目が決議された。さらに、県への要望や自力更生の重点項目が決議され、最後に町村会と農会が団結して農村救済を実現していこうという「宣言」が決議された(『栃木農報』昭和七年八月号)。このような決議・農村救済請願が各県で行われたほかに、自治農民協議会、大日本地主会、帝国農会、社会民衆党、労農大衆党などからも農民救済の請願が議会に提出されていた。これらの請願は「農家負債三カ年据置」「農民の借金、税金、小作料の五カ年間モラトリアム」などを共通に要求していたので、「農村モラトリアムの請願」といわれた。五・一五事件後の政情不安と農民救済の叫びの中で開かれた第六二臨時議会(六月一日~一四日)は請願を受けて農民救済の決議を行い、具体策は次の第六三臨時議会(八月二三日~九月四日、救農議会、時局匡救議会)に委ねられた。犬養内閣に続く斎藤内閣でも大蔵大臣をつとめていた高橋是清は赤字公債による公共投資をふやして不況を打開しようとする、いわゆる「高橋財政」をすすめていた。
 救農議会では救農土木事業、農家負債整理、農業金融等が論議され、政府は三か年にわたる時局匡救計画をつくった。それは内務、農林、文部など中央所管の事業費約六億円、大蔵省預金部資金の低利融資による地方事業費約二億円の計八億円、それに農村・中小企業の負債整理、高利負債の低利借換のための融資八億円を加えると一六億円の巨額に達するものであった。こうして土木事業と負債整理を二つの柱とする時局匡救事業が決定されたが、この議会直後、政府は農林省に経済更生部を設け、農会の不況克服策の柱であった自力更生運動を救農政策の中心にすえた。さらに、昭和八年(一九三三)には米穀統制法をつくり米価維持のため政府が米を制限なく買い上げられるようにした。
 救農土木事業は現金収入のなくなった農民たちに雇用機会を与えて、農家経済の窮状を緩和することをねらい、三年間に八億円を農村にばらまくという前代未聞の事業だった。また、経済更生運動は不況下の農村で篤農家や青年たちの間に生まれてきた、自力で農業と農村を再建しようとする動きを利用して、総力戦体制に対応する村落共同体を編成することをねらっていた。