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争議対策の自作農創設事業

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 大正一五年自作農創設維持補助規則が公布された。この規則の主たる狙いは小作人が田畑を買い取り自作・自小作化するのを援助し、小作争議を防ごうとするものであった。また、それは地主にとっては小作争議、小作料減免、米価下落、地価の低落傾向、そのうえ増大した地租と同付加税の負担という不利な環境の中で土地を安定した価格で売れることでもあった。この事業の概要は次のようであった。
 
  一、簡易生命保険積立金から道府県へ低利資金を融通し、自作農の創設維持を行わせる。その金額は二五年間で四億六八五〇万円とする
  二、融通資金の利率は四・八パーセント、内一・三パーセントは政府が補助、借りた農民は三・五パーセントの利率、貸付限度額四、〇〇〇円、一年以内据置、二四年賦で元利均等償還とする
  三、貸付の基準となる地価は平年作の実収小作料に最近五か年間のその地方の農産物平均価格を掛けたものから地租・同付加税を差引いた純収益を六・二二七パーセントの利子率で資本還元して算出する
  四、これで自作地となる面積は二五年間で一一万七〇〇〇町歩、全小作地の二三分の一にあたる
 
 大正一五年から昭和一一年の実績は貸付金額一億五四八七万円、創設維持面積八万六一一九町歩、創設維持農家戸数一九万三六八一戸、一農家当たり創設面積平均四反五畝歩、維持面積平均四反三畝歩であった。
 塩谷郡でみるとこの期間の各村の自作農創設維持資金の貸付け状況は表8のようである。全国的には小作争議の多発する地域に事業が集中して行われたというが、塩谷郡でも昭和元年、二年は熟田村と大宮村の二村に集中していてそれぞれ八七パーセントと四九パーセントになっている。ともに後に全農全会派の強力な組合が結成された村である。熟田村は元年から五年までの自作農創設資金の貸付けを受けたのは一七人、資金は二万七〇五五円である。六年から一一年までは貸付けを受けた者はなく、自作農創設事業の二期目の一二年になって九名が貸付けを受けている。北高根沢村の場合をみると次のようであった。
 
 四年 貸付者 七名 貸付金  九、一九七円
 五年  〃 一五名  〃 一万八、三三九円
 六年  〃  ?名  〃   八、二五二円 申請者九六名 申請金額四万八三一九円
 七年  〃  ?名  〃   七、七六三円  〃 三三名  〃  二万三五二四円
 
 六年以降は貸付を受けた人数が分からないが、貸付金額からみると六、七名程度と思われる。特に申請の多かった六年には申請者の一〇分の一程度、七年でも五分の一程度しか貸付けを受けられなかったから、自作地を低利資金で手に入れるのは極めて狭い道であった。特に阿久津村と較べると、小作争議のほとんどなかった北高根沢村は低利資金の割当ても少なかったのであろう。
 次に阿久津村をみると、この事業が小作争議対策であったことがはっきりわかる。小作組合が結成され最初の小作争議のあった昭和六年から貸付金額は急激に増加し、阿久津事件のあった七年には三万五〇〇〇円を超え、人数は不明だが、一村で同年の郡全体の貸付金の五六パーセントを占めている。この傾向は一一年まで変わらず、自作農創設第一期の塩谷郡の低利貸付資金の約四〇パーセントが阿久津村一村に使われていた。
 
表8 塩谷郡の自作農創設維資金貸付額
(昭和一二年七月現在)
町村名昭 和
元年度
昭 和
二年度
昭 和
三年度
昭 和
四年度
昭 和
五年度
昭 和
六年度
昭 和
七年度
昭 和
八年度
昭 和
九年度
昭  和
一〇年度
昭  和
一一年度
塩 谷 郡矢板町四、七〇〇一、九七〇五、八〇〇一二、四七〇
泉 村二、〇〇〇一、一一四二九、九〇〇一、九〇〇三四、九一四
箒根村七、七四〇七、七四〇
藤原町一、〇四五一、八七〇九八五一、八〇〇五〇〇一、六〇〇七、八〇〇
船生村一一、七一八一〇、九三六一二、八四四六、六三六四二、一三四
玉生村一、七〇〇一、三八五三、〇八五
大宮村一〇、〇一五六、五〇〇三、六四〇五、三五二二五、五〇七
氏家町一、九四五二、九九一二、五五五
 二、三七一
八、七二三一五、一〇五一五、九三〇一一、七五四一〇、〇四七八、二二〇一六、四八三八、三〇〇一〇四、四二三
阿久津村三、七三一一、一〇五三、一九八一六、三七四三五、一六一三二、四一六三四、八一八四七、九四四四二、九〇八二一七、六五五
北高根沢村九、一九七一八、三三九八、二五二七、七六三一、七〇七七、三四三四、九二五五七、五二六
熟田村一〇、二五三六、三二五二、三八〇五、八二七二、〇〇〇二六、七八五
片岡村七、一六六九七〇二、四三〇一、一四〇一、一五〇一二、八五六
 計二三、二五八二六、一一七三二、四〇四四三、九五四五三、八五六四八、九九二六二、三四四七七、〇一〇五八、六一一七〇、四九一五五、八五八五五二、八九五

『栃木県史』史料編近現代四・一〇六九頁より