労働運動が盛んになると、地主制と高い小作料に苦しんでいた農民も小作争議を起こすようになり、大正一〇年には県内でも二二件の小作争議が起きている。しかし、小作争議を農民解放と社会変革の手段と考えて取り組む人々が現れるのは大正末期からである。
本県の農民運動には三つの源流がある。その一つで先駆けとなったのは大正九年に小作争議が広がった足利地方で、日本農民組合の結成(大正一一年)をうけて翌大正一二年(一九二三)に日農山辺支部(現足利市)が結成された。ついで日農の第一次分裂後、大正一五年に両毛地方の小作人組合をまとめて足利の成瀬重吉と群馬の坂本利一が日本小作人総同盟(一一支部、組合員一、九八七名、労働総同盟系)を結成した。
県中央部の源となったのは河内郡横川村(現、宇都宮市)に大正一三年に誕生した救農会である。救農会は盛岡高等農林学校で社会政策や社会主義を学んだクリスチャンの大屋政夫が、郷里横川村の小作や零細農民の悲惨な生活をみて、一生を農民の解放に捧げようと決心し、若い小作人たちとつくった会である。大正一五年(一九二六)九月には河内郡小作人組合連合会(組合員二〇〇人)へと発展した。
もう一つの源が左派・共産党系の芳賀農民組合である。この組合をつくったのは真岡クリスチャン教会の若い牧師平賀貞夫、東京・丸善に勤め社会主義を学んできた真岡・田町の本屋・田村豊助、青年友愛会を組織して益子の陶器労働者の生活向上を目指していた磯部常雄らを中心とする青年たちである。彼らは禁酒運動や読書会で同志を集め昭和二年から農民組合を組織しはじめ、同年真岡農民組合を結成、昭和四年には日本大衆党芳南支部、昭和五年(一九三〇)一二月には芳賀農民組合を結成した。そして、翌六年七月には全国農民組合(昭和三年日農と全日本農民組合が合同成立、このころは左派・全国会議派、右派・総本部派に分裂)全国会議派に加盟した。
普選第一回の総選挙(昭和三年)後、県下の労農運動指導者の間には戦線統一への要求が高まり、後述の日本大衆党県連が成立(昭和四年二月)すると、その影響下に一一月に「栃木県農民組合」が結成された。さらに、昭和六年全農が分裂し、右派(総本部派)の主導権が確立すると栃木県農民組合も全農に加盟した。こうして栃木県農民運動は形の上では全農栃木県連合会ながら左派(芳賀)と右派に分裂し互いに競いあいながら昭和九年の統一まで活動する。そして、昭和戦前期に全国的にみても、最も戦闘的な活動を展開したのである。
図7 真岡クリスチャン教会の牧師で芳賀農民組合の組織者平賀貞夫 『真岡市史』近現代通史編より