日本労農党結成の中心には麻生久、石山寅吉らがいた関係で本県には足尾に日本労農党支部ができたが、当時、日農関東同盟にいて日本労農党結成に係わった藤岡町出身の岩崎正三郎は石山、大屋らと相談し、昭和二年(一九二七)八月宇都宮で日本労農党栃木県支部を結成した。そして、普通選挙権獲得後初めての県会議員選挙に上都賀から石山、河内から大屋、足利からは日本農民党の三田良作が立候補した。石山は足尾で大量得票して当選、初の無産党県議となったが、他の二人は落選した。
昭和三年の普選第一回の衆議院議員選挙には、足尾銅山の労働運動の指導者として名を知られていた日本労農党書記長の麻生久が一区(宇都宮市、河内、上都賀、塩谷、那須各郡)に立候補、二区には大沢一六が無産三党統一候補で立候補した。選挙運動が進むと麻生の演説会は無産党人気で大入りとなり、石山当選の勢いや農民組合の活動の影響もあって麻生は有力候補と新聞に報じられ、当選確実といわれた。警察と足尾鉱業所は麻生を当選させないため、一体となって選挙干渉と妨害を加えた。政友・民政系の選挙妨害も激しく、得票は五、八一〇票(得票率五・二パーセント、塩那一、一二五、上都賀一、八一九、河内一、四一一、宇都宮一、〇三九)を得たが落選した。一区の当選者は政友会が森恪(塩那のみで一万六四三二票、得票の一〇〇パーセント)、斉藤藤四郎、民政党が高田耘平(塩那で一万二、一六七票、得票の七五パーセント)、高橋元四郎、斉藤太兵衛であった。この時、全国で当選した無産党の八人の代議士・鈴木文治、山本宣治、河上丈太郎らは院内団体をつくり、労働組合法案、小作法案、婦人へ参政権・結社権・公民権を与える法案の提出、治安警察法、治安維持法などの廃止、対中国出兵を非とし出兵予算反対等の実現のために共同行動をとることを決めた。うち続く不況と社会不安のなかで、無産党勢力が広がることを恐れた政友会の田中義一内閣は三・一五事件(昭和三年)、四・一六事件(昭和四年)で日本共産党勢力を徹底的に弾圧し、中国大陸への侵略政策をすすめていた。
図8 昭和3年普選第1回の麻生のポスター(『麻生久』麻生久伝記刊行委員会代表編者河上丈太郎)