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昭和五年の総選挙

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 昭和五年二月、普選第二回の総選挙には、一区では定数五に対して前議員五名に政友会の新人船田中、坪山徳弥と麻生が立候補した。塩那地区の票に大部分を依存するのは森と高田耘平(当時農林政務次官)だった。恐慌の波が広がるなかで労働組合、農民組合の運動は上都賀、河内、宇都宮から那須、塩谷へも広がってきた。前回選挙のとき「無産党の演説を聞き大きな感銘をうけて」「献身的な応援」をした阿久津村の二人の青年加藤敏一郎、矢田部広吉(黒沢幸一著『暁の乱鐘』阿久津大騒擾事件の真相)はこの時はすでに村の農民運動の中心で、この選挙にも仲間の小作人たちと応援に活躍した。隣の熟田村には組合幹部の小野久内がいたし、このころ、小作人組合ができていた(『氏家町史』下巻)。西那須野、箒根、川西には栃木県農民組合の支部があり、農民組合と大衆党の力は侮れないものに成長していた。それは昭和四年の市町村議選で塩那で川西村の藤原熊雄が当選、喜連川町の小森谷義夫は惜しくも落選したが、今市で一名、雀宮で一名、宇都宮で大貫大八、黒沢幸一の四名が当選したことにも現れていた。
 前回の政友会内閣の下での選挙に対し、今回は民政党内閣の下での選挙なので「農民の神様」といわれる農林政務次官・高田耘平(民政)は森より有利に選挙を戦うと思われていた。しかし、選挙運動のなかで麻生に対する農民の支持が増えていることを知った高田は下野新聞紙上(二月一九日)に「無産党の政策は全農民を滅ぼすものなり、農民代表・高田耘平」と題する広告を乗せ、麻生支持の農民層の切り崩しをはかった。同日の新聞に大衆党=麻生側も「農民を欺く高田耘平の農民政策!見よ!彼の欺瞞と悪辣さを」という題の広告を乗せ「大地主の代表高田耘平か!働く農民の代表麻生久か!」と麻生への支持を訴えた。高田は二月二〇日さらに「大衆党の欺瞞宣伝、欺かるゝこと勿れ、農村の状況を知らぬ甘言、課税の内容を究めぬ空言」という広告を乗せて麻生への攻撃を強めた。この紙上討論に似た広告合戦は選挙後も続き、大衆党県連は三月一四日に公開質問状を出して、高田に立会演説会を申し入れている。
 一区の選挙結果は次のとおりだった。
 
 当選 森恪   (政友) 一万六八五二
 〃  斎藤太兵衛(民政) 一万四九九一
 〃  船田中  (政友) 一万四四四一
 〃  高橋元四郎(民政) 一万三九四三
 〃  高田耘平 (民政) 一万三七一五
 次点 麻生久  (大衆) 一万〇八〇六
 
 麻生の得票は前回より四、四九六票増えたが、その七三パーセント、三二九九票は那須と塩谷であった。後年、選挙事務長だった大貫大八は選挙終盤に塩那地区に重点を置くよう地区責任者から進言されたが、現職の農林次官が弱いとは考えられず作戦を誤ったと後悔している(大貫大八著「昭和初年の栃木県社会運動史の一駒」『栃木史論』6所収)。
 この結果は既成の政友、民政両党を十分に恐れさせるものであった。選挙後、県内の労働争議、小作争議は大衆党県連が関係するとより厳しい弾圧に直面するようになった。

図10 農林政務次官高田耘平(花岡 岡本右提供)