高根沢町域の小作争議は大正一〇年一一月末、阿久津村で発生したものについての記録が最も古い。結果は不明であるが、関係地主八名・小作人五四名、田四八町歩・畑三町七反歩で、小作人が不作のため小作料三割減を要求し、いれられなければ土地を返還する申し入れをしたという。(『栃木県史』史料編近現代四・九四一頁)。
昭和に入ると、大衆党や農民組合の活動の影響で三年の普選第一回の総選挙で麻生の選挙を手伝った青年たちを中心に農民運動が起こり始めた。昭和五年春には熟田村に小作人組合が結成された。四〇余名の小作人が参加して、小作料の軽減、小作地の返還絶対反対、耕地改良費を地主に要請する、肥料の共同購入などを申し合わせた。この組合は横浜、烏山の肥料商から肥料を共同購入し、大地主の下野銀行に取締役鈴木峯三郎を通じて小作料の軽減、土地改良費の支出を要請し、二つとも実現した。
熟田村では翌六年九月、増形事件といわれる、大地主増形監物の小作田二二町歩余が債権者によって「立毛差し押え競売」にされるという事件が起きた。小作人約三〇名は同村の地主で大衆党塩那支部長の上野久内に頼んで解決しようとした。上野は小作人たちと協議し裁判では費用と時間がかかるとして、現地で直接交渉して解決する方針をとった。それで全農全国会議派系の弁護士布施辰治、石田重心らが指導に来村、全国会議派の芳賀農民組合が大衆動員して(ア)差押えの即時解除、(イ)小作料の全免、(ウ)差押えより今日までの損害賠償、を要求した。この争議は喜連川警察署長が調停に入り、債権者側は差押え解除、金七〇円を小作側に贈る、小作側は小作米九〇俵を納めるという条件で解決した(浜野清・前掲書、一六五頁)。これを契機に大字狭間田小野喜七宅を事務所に熟田村農民組合ができ、熟田村は全農全国会議派の拠点として注目されるようになった。大塚大一郎、柳正一、渡辺春夫、共産党農民部の山崎友則らが指導に来村、周辺各村でも夜の座談会を開いて支持者を増やし、西は阿久津、絹島、羽黒、大宮、玉生、箒根の各村、北は早乙女、鷲宿、上江川の村々へと連絡網をつくり、芳賀、河内北部、塩谷南部で数時間の内に五〇〇名を動員できる態勢をつくりあげた(『氏家町史』下巻・二六一頁)。
こうした農民組合の動きに危機感を抱いた熟田村の地主一五名は昭和六年一一月、熟田村地主組合(組合長小野敏夫、事務所狭間田)をつくり農民組合に対抗した。地主組合規約によると組合の事業は組合員の親睦を図ること、小作料の統制、産業の発達に必要な協定を結ぶことであった。最初の理事会で決めた主なことは組合役員の選挙と次の諸事項である。
一 昭和六年度の小作料は減額しないこと、但し凶作種は五割以内の減額を認めること
一 小作人より減額を申しでた者があったら(その承認については)理事会の決裁を経ること、但し代理人をして申しでた時は採用しないものとする(大衆党、農民組合の介入を防ごうということ)
一 小作人が小作米の滞納、あるいは理事会の協定率以外の減額を要求したときは土地の返還を請求するものとする
一 小作人が不法、不穏の行為、または争議をする者があるときは組合長または理事に届け出るものとする
一 理事会で不良小作人と認定した小作人に対しては小作関係は勿論其他一切の取引を拒絶するを要す
一 土地返還請求または小作料収納請求に要する費用は地主が七割、組合員が三割負担する(史料編Ⅲ・八三一頁)。
この内容は小作人が農民組合などを通して団体行動をとればぶつかる事項が多く、農民組合の活動をすれば不良小作人と認定される可能性が大きい。農民運動を予防しようという意思を示した地主の同盟である。ただ、この組合が活動したのはこの時期だけである(『栃木県史』史料編近現代四・九六六頁)。