そして、この朝、石末には地主同盟のよんだ黒シャツ姿の制服と棍棒で身を固めた生産党員がきて、天神坂下に事務所を構えた。彼らは数人で隊伍を組んで村内を巡回し、組合員の家を監視していた。七日の朝、馬車に七俵半ほど米をつんで宝積寺へ売りに行こうとした組合員は、
氏家街道のところから生産党員が棍棒を持って七、八人きて「米を売りに行くのか」といって、その米を下ろしてしまった。その後、私の家に来て「地主に米を納めないで売る等とは悪い奴だ」といって一人は衣服をぬいで私の胸倉を押さえつけるなどした。私は怖いので家の中にじっといたが(中略)、生産党員は交代で一日中私の家に来ていました(阿久津村分「予審調書」法政大学大原社会問題研究所蔵)。
このように六日からは生産党員四、五〇人が石末に入り込み、大衆党攻撃や演説会のビラを貼り、組合員の家まで侵入して小作米を納めるよう脅していた。この状況を知った加藤敏一郎は近くの組合員と相談して「これでは小作人が石末にいることは出来ない」と宇都宮へ応援を頼みに行くことになった。
加藤や喜連川支部長の桑久保源吾から大屋拉致事件や生産党が石末で我がもの顔に振る舞っていることを聞いた全農県連の大貫俊夫、室井篤らは、七日朝生産党を攻撃する方針をたて、桑久保に塩谷方面の動員を頼み、大塚宮明と相談して横川、雀宮、本郷の各村の組合員を動員し数十名で応援にいったが、生産党に追い払われてしまった。生産党側は数十名が三段構えの非常線を張り、刀や木刀を持って小作人の家を押して回り、争議団事務所も占領していたという(「大貫大八予審調書」史料編Ⅲ・三二二頁)。これはその日の夕方、大衆党県連執行委員会を開催中の党、全農幹部に伝えられた。
図13 村内を巡回する黒シャツ姿の生産党員たち(「東京日日新聞」昭和7年1月11日)