この手紙はそうした状況の中で死の二週間前に書かれたものである。そこには、まだ会ったことのない菅又に「旧社大党県連の経営費に数回莫大なる援助」を受けたこと、さらに社大党県連の解散の時も「多大の援助」をしてもらったことを感謝して、その上さらに「弐百円」の借金を頼んできたものである。これは恐らく麻生久の書いた最後の手紙であろう。各県連の借金を清算してきちんと解散させることが麻生の元党首としての最後の仕事であったというべきだろうか。
残る疑問は菅又薫が、なぜ社大党県連へ資金援助をしていたのか、ということである。一五年にはかつて麻生下ろしの主役と目された森恪はすでに亡く、麻生に代わって一二年選挙に出て本県初の大衆党代議士となった石山寅吉も亡くなっている。一区の選出代議士は政友の船田中、江原三郎、坪山徳弥(石山の後)、民政の高田耘平、岡田喜久治で地主の代弁者はいても農民の代弁者はいない。
菅又は昭和七年三月に、県会議員のまま、北高根沢村長になっている。財政難でなり手がなく、村会の要請をうけてのことであった。一四年三月に村長をやめ、一五年一〇月には県会議員も辞任している。そして、一七年の翼賛選挙には大政翼賛会の推薦なしに立候補し、当選した少数の非推薦議員の一人である。菅又はこれまでの農村問題解決の努力の中で、例えば高田耘平が大衆党を目の仇にして対立してきたのとは違って、大衆党系の農民組合員との繋がりがあったし、頼まれれば社大党県連へ資金援助をするのはあり得ることである。特に社大党になってからは、闘争的な労農大衆党時代より思想的に菅又は違和感なく接することが出来たのではなかろうか。菅又は常に現実的に農民生活の向上を願っていた。栄養のバランスのある食事を取れる子供、丈夫な子を生める母親、頑健で国の守りを任せられる農村青年、それをどう育てていくかが彼の課題だった。そのためにより大きな影響力を持ちたいと、衆議院への出馬を考えたのは何時だったのだろうか、大衆党との関係を解く鍵はそこにあると思われる。
図18 麻生の8月24日付の手紙(花岡 菅又剛三郎家蔵)