昭和七年は阿久津村の流血の事件で始まり、二、三月と血盟団事件、五月の五・一五事件と人々の不安をかき立てるテロ事件が続き、不況もさらに深まった。議会では時局匡救決議がされ、農民救済への取組みも始まったが、前年の凶作もあって、米の端境期がちかづくと米価が上がりはじめた。政府はその時期に貯蔵米五〇万石を買い換えのため海外に安売りをすると発表した。これに怒った日本無産者消費組合連盟は安い米を求めて政府保有米の獲得闘争を労働者・農民に提案した。六月には全農総本部派も全会派も政府米の無償または年賦による払下げ運動への取組みを指令した。折しも、七月二日に関東消費組合連盟がデモや署名運動によって農林省から米を安く払い下げることに成功したので、「米よこせ」運動は全国に広がっていった。
県内では阿久津村事件で全農総本部派の幹部、大衆党幹部の大部分が収監されていた時期であったから、運動の主力は全農全会派であった。だが、全農総本部派、大衆党県連も飯米闘争を指令したので、芳賀郡、塩谷郡ばかりでなく、宇都宮市、下都賀郡など多くの市町村に政府米払下げ運動がおきた。
最初におきたのは芳賀郡の山前村である。ここは小作農の多い村で、全農全会派の県委員長・大塚大一郎の地元であった。全農山前支部は六月二八日「村基本財産二万一〇〇〇円を貧困者に政府米払下げ購入費として分かつべし」という要求を村議会に提出し、戸数割一円未満の者を対象者とするよう具体案を示した(浜野清・前掲書、一八〇頁)。村会がこの案に反対して決定が遅れると全農側は演説会を開いて運動を盛り上げた。隣の益子町でも七月八日飯米闘争が始まった。その影響もあって、ようやく八月九日になって山前村会は政府米一一二俵の払下げを受け、うち五〇俵は方面事業肋成金で購入して貸し付け、六二俵は希望者に原価販売することにした。