芳賀郡、塩谷郡の全農全会派への弾圧の機会をねらっていた喜連川警察署長は、天皇が来ていた那須御用邸の警戒が終わると、午後六時ごろ、佐野署の警官二〇名、喜連川署一〇名を率いて役場を包囲し、約六〇名の組合員を格闘の末検挙した。全会派委員長大塚大一郎、渡辺春夫らは警戒して隠れて指揮をとっていたので無事だった。捕えられた組合員は自動車四台で宇都宮署、真岡署へ送られた。
全会派は各支部に動員令を発し八月一、二日は五〇〇人を超える組合員が役場に集結し、同じく動員された警察官一〇〇名と睨み合いとなった。警察は大塚ら幹部三名と支部組合員四名を検挙した。こうした状況のなかで、二日、再び協議が再開された。県も事態を重くみて山本県属を協議会に参加させた。会議の結論は村内有志が出資して村の責任で、五〇戸の農民に一戸当たり米一俵を出来秋まで貸すということだった。
熟田村の結果は県下各地へ伝わり、僅か一週間の間に飯米闘争は河内郡瑞穂野村、絹島村、上都賀郡北犬飼村など一市一一か町村に広がった。時期がちょうど「救農議会」と重なったこともあって、県は飯米闘争沈静化のため政府米二万俵の払下げを受け、一俵一円の補助金をだし、一俵五円程度で消費者へ渡るようにはからった。飯米闘争は全国的に広がったが、県を動かして具体的成果をあげたのは栃木県だけだったという(『日本労働年鑑』昭和七年版)。阿久津事件の地主側リーダーだった野沢茂堯は県参事会員大橋英次への手紙で、飯米闘争の真の発生地は阿久津村であるべきなのに、阿久津では飯米欠乏の声を聞かない。飯米闘争はすべて「悪思想を有する無産団体」の運動だとして、県が彼らの要求を認めるような施策をとることは将来に大きな禍根を残すという見解を述べている(史料編Ⅲ・三四三頁)。飯米闘争の一面の真実をとらえた見解である。