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農民運動の衰退

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 熟田村の闘争は、得られた成果に対して支払った犠牲が大きかった。二日間で約四〇数名の幹部が検挙され二〇数日間拘束されていたが、これを不当拘禁として抗議行動を始めた全会派幹部に、共産党員の指導が加わっていると疑った特高警察は、地道な調査で党農民部の山崎友則を追い詰め、九月三日石末の籠関の全農幹部の家で逮捕した。これに関連して一〇月全会派幹部一〇名が逮捕され(赤旗事件)、山崎、磯部常雄、野沢光二、氷室三吉(執行猶予四年)が下獄し、全会派の力も弱くなった。
 栃木県の農民運動はその後、厳しい弾圧の中で全会派が総本部派に戦線統一を申し入れ、昭和九年五月に県教育会館で合同大会を開いた。統一された全農県連の議長(のち委員長)には大塚大一郎、書記長には大屋政夫が就任した。前出の表10でみるとおり九年から一一年は本県で小作争議が最も多い時期であり、県連はその指導に明け暮れた。しかし、地主はこのころから争議を法廷で争うようになり、弁護士費用に苦しむ組合は敗訴することが多くなった。そして、争議の敗北の増加とともに組合を脱退する農民が増えた。また、大屋の地元横川村・雀宮村には昭和一〇年五月に小作争議防止委員会が地主・警察・在郷軍人会などで結成され、大屋たちへの攻撃を強めた。そして、日中戦争が始まると「非常時」の掛け声の下にあらゆる社会運動がおしつぶされていった。昭和一二年一二月の「人民戦線事件」(反戦・反ファシズムの統一戦線をつくろうとした運動)で全農県連の構成員はほぼ全員逮捕され戦前の労働者・農民運動は終わりを告げた。

図20 昭和8年全農県連年次大会スローガン(法政大学大原社会問題研究所蔵)