栃木県の農民運動はその後、厳しい弾圧の中で全会派が総本部派に戦線統一を申し入れ、昭和九年五月に県教育会館で合同大会を開いた。統一された全農県連の議長(のち委員長)には大塚大一郎、書記長には大屋政夫が就任した。前出の表10でみるとおり九年から一一年は本県で小作争議が最も多い時期であり、県連はその指導に明け暮れた。しかし、地主はこのころから争議を法廷で争うようになり、弁護士費用に苦しむ組合は敗訴することが多くなった。そして、争議の敗北の増加とともに組合を脱退する農民が増えた。また、大屋の地元横川村・雀宮村には昭和一〇年五月に小作争議防止委員会が地主・警察・在郷軍人会などで結成され、大屋たちへの攻撃を強めた。そして、日中戦争が始まると「非常時」の掛け声の下にあらゆる社会運動がおしつぶされていった。昭和一二年一二月の「人民戦線事件」(反戦・反ファシズムの統一戦線をつくろうとした運動)で全農県連の構成員はほぼ全員逮捕され戦前の労働者・農民運動は終わりを告げた。
図20 昭和8年全農県連年次大会スローガン(法政大学大原社会問題研究所蔵)