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産青連の結成

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 恐慌の嵐が農村に吹き荒れ、農民運動や政治運動にはしる農村青年が増えてくる中で、各地の産業組合の青年職員の中からは産業組合の在り方を研究し、産業組合の拡充と発展によって農業と農民生活を立て直そうという人々が現れてきた。彼らはしだいに町村、府県単位に産業組合青年連盟を組織した。そして、「産業組合拡充五カ年計画」の第一年度の昭和八年(一九三三)に産業組合中央会の後押しもあって産青連全国連合が結成された。
 本県では昭和五年に芳賀郡産業組合青年連盟が県の農林主事補小西千代蔵、大内村の大塚峻蔵、物部村の細島忠文らを中心に最初に結成されたが、「左翼政党」のメンバーが潜入しているとされ、機関紙の配付を警察に止められる事件などがあって、加入者を増やすのは困難だった。実際、芳賀の産青連には大塚峻蔵のような大衆党員も非合法の共産党の支持者もいて、産業組合運動で農村を協同自治の新しい共同体に改革しようと考えていた人たちもいた。同年結成された上都賀郡板荷村産青連は若き理論家渡辺保一朗がリーダーであった。翌六年には河内、宇都宮を区域とする栃木県中部産業組合青年連盟が結成された。理事長には小西千代蔵が選ばれた。盟友一五〇名で会費三〇銭を集め、自主的な運営を行う同志的結合を誇る団体だった。愛知県安城での農業経営改善講習会、茨城県河原子での臨海講習会など活発な活動ぶりが有名だった。こうした町村産青連の結成を背景に昭和八年一〇月、宇都宮の商工奨励館で栃木県産業組合青年連盟結成式が挙行された。加盟数は五四市町村、盟友四、二五七名で、理事長五月女久五、理事横尾三郎外八名、第二次の役員には理事長は代わらず、副理事長横尾三郎(粟野)、常任理事に北高根沢村栗ヶ島の渡辺佳勇、渡辺保一朗、細島忠文、森田正義ら八人が選ばれた。こうして発足した県産青連は結成の「宣言」で次のように述べている。
 
  (前略)吾等は社会の現状に鑑み産業組合の理論を研磨し、共存同栄の旗下に大同団結し凡ての難関を排撃して理想的社会の実現を期せざるべからず、ここに栃木県産業組合青年連盟を結成し勇猛邁進して県下産業組合運動の為に努力せんことを誓う(栃木県農務部編『栃木県農業団体史』四二四頁)
 
 綱領には「産業組合の理論及実際」の明確な把握、「実践的活動を通し産業組合運動の正しき発展を図る」ことが掲げられていた。そして、昭和九年一月から月刊の機関紙「栃木県産業組合ニュース」(「ニュース」と略称)を発行し自分たちの主張を展開していった。