熟田村も昭和八年に経済更生計画指定村になったが、阿久津村と同じように農民運動がさかんで、特に飯米闘争の舞台になったことが指定の理由であったろう。指定をうけた村は昭和八年三月、阿久津村と同じように六部からなる村経済更生委員会を組織して計画を策定した。その概要を見てみよう。
一 産業部
主力を米麦の増収に集中し、余剰労力と農閑期労力利用のため養蚕、煙草、藁加工品等の副業の奨励を励行せんとす
(ア)実行事項 暗渠排水で湿田を乾田化。自給肥料を増産し、反当堆肥三〇〇貫、緑肥二五〇貫にする、水稲品種の統一(現在四八品種)県奨励品種の普及割合を八〇~八五パーセントにする。二毛作の奨励(小麦、油菜、レンゲ)
(イ)農業経営研究会 月一回研究座談会開催、先進地視察、少ない費用で優品多産の品評会開催
(ウ)水稲の増産〔現在〕田一、四二四.一町、二万九九八三石(反当二石一〇五)
内検査俵数 六万一五八六俵、村内消費高(推定)五、三四九石
五年後の増産計画(面積現在に同じ)
湿田 三〇パーセント 四二七町歩 反収一石八斗(四~五俵) 七、六八六石
下田 二〇パーセント 二八五町歩 〃 一石八斗( 〃 ) 五、一三〇石
中田 四〇パーセント 五七〇町歩 〃 二石五斗(五~七俵)一万四二五〇石
上田 一〇パーセント 一四二町歩 〃 三石 (七~八俵) 四、二六〇石
計三万一三二六石(一、三四三石増)一俵八円で五〇万六五二〇円(二万六八六〇円増)
(エ)小麦の増産〔現在〕田 五六町三反、一、一二六石(反当二石)
畑一五五町五反、一、七一五石(反当一石一斗)
計二一一町八反、二、八四一石(六、六〇七俵、村内消費高三、〇〇〇俵)
五年後の増反見込
田 一三〇町 反当五俵半 七、一五〇俵
畑 二〇〇町 反当四俵 八、〇〇〇俵
計 三〇〇町 一万五一五〇俵 内 村内消費高三、〇〇〇俵
計画前より八、五四三俵増、一俵六円で五万一二五八円の増収、昭和八年からビール醸造用大麦の奨励を始めた。
(オ)副業の奨励 外俵及縄組合、製叺副業組合の督励。養豚、養鶏、養兎の奨励
(カ)養蚕の増殖計画
桑園 反当収葉量 総収繭量 総価額 戸数
現在 四七町七反 一八八〆 六、九〇七〆 一万九六六六円 一二〇戸
五年後 五七町〇反 二五五〆 八、五五〇〆 四万五〇〇〇円 一五〇戸
実行方法・養蚕実行組合に養蚕普及係、桑園能率増進係、収繭能率増進係、繭生産費逓減係の四分担を置いて行う
(キ)販売統制 米小麦の全販連統制、村農会斡旋、農業倉庫利用、一般農産物の共同販売
二 経済部
(ア)産業組合の利用・拡充を図る(現在農家数六六五戸、組合員三一〇名)
組合員五六〇名に増やす、肥料の共同購入、青田担保の貸付、高利金の借換を勧める、生活必需品の共同購入
(イ)負債整理委員会の設置
(ウ)貯蓄の励行 昭和八年一〇月を始めとし毎年一〇月限り現物貯金とする。一反歩当り自作地二升以上、小作地一升以上、受作地一升以上
(毎年二八四石八斗、五年後の元利合計一、四二四石・三万三〇四四円五〇銭)
納税貯金の励行(一町歩に付 小作一俵、自作二俵を農業倉庫に入庫、熟田村信購販組合に貯金)
副業貯金の励行(二重俵装で得た益金の内五銭ずつ、藁細工益金の一部)
(エ)予算生活の実行(農業簿記の普及)
三 社会部
(ア)方面委員会の設置(イ)思想善導(神仏に礼拝、墓地清掃デー、祝祭日の国旗掲揚、農家の公休日を設ける。二宮先生に倣い勤倹力行、不平をいわない等)
四 教育部
(ア)義務教育の徹底、貧困児童の救済(イ)勤労教育・実業教育の徹底(ウ)体育の向上、衛生思想普及、規律的生活(エ)情操教育の振興(オ)青年訓練所の普及と男女青年団の向上・発展
五 婦人部 熟田村主婦会を設置する
熟田村農事実行組合第一回申合実行事項(二〇項目を要約)
ア 年始回礼、稚児への歳暮、快気祝、伊勢参宮・神社仏閣参詣・旅行の餞別は廃止
イ 出産見舞い、稚児の節句祝は長男長女に限り認める
ウ 入退営兵の送迎は其の区限とし送迎旗・土産・回礼を廃止する
エ 結婚式は質素に、新郎新婦の挨拶回り、新客の際の招待は廃止
オ 病気見舞いは金品とし、飛脚には酒の供応廃止
カ 区内の葬儀会葬者は香典を二〇銭と定め香典返しは廃止する
キ 冠婚葬祭その他会合は質素を旨とし時間励行を厳にする
ク 盆提灯の贈呈、火災時の酒を全廃し、宴会の会費は三〇銭以内とする
ケ 頼まれないで家普請手伝い、田植え其他の農事手伝いをしないこと
コ 他人の迷惑となるコサは刈り取ること
サ 他所よりの寄付申込みを受けた時、各個人は之を断ること
シ 購入使用品は国産品とし、奢侈贅沢品は使用節減すること
このような計画で熟田村の経済更生計画が発足した。しかし、当初は飯米闘争の余波や農民救済の諸事業、昭和九年の東北地方大冷害と県内の凶作対策、昭和一〇年には全農委員長大塚大一郎の県会議員選挙で村内の地主・小作間の対立が厳しくなるなど、村政を取り巻く状況は不安定であった。そのため、経済更生計画は計画どおりにはなかなか進行していなかった。昭和一一年の二・二六事件を経て昭和一二年七月に日中戦争が始まると、戦争遂行のため「銃後農村」の建設が叫ばれるようになり、経済更生計画の実行が改めて取り上げられてきた。塩谷郡では片岡村と熟田村が昭和一二年度の経済更生計画再検討町村に指定され、熟田村は一三年度の特別助成町村に指定された。指定された町村が計画立案にあたって特に留意するよう指導されたのは次の諸点だった。
1 重要農産物の計画的生産(軍需及び国民必需食料品、工業原料品等の計画的増産)
2 農家経済安定化計画(経営を安定させる一戸当り耕地面積、農地改良、耕種・養蚕・畜産・農産加工等を安定的に営める経営組織)
3 満州開拓農民の送出(分村計画による農業開拓民、青少年義勇軍の送出)
4 農業経営の基本的要素の整備及利用の合理化(共同作業、共同施設の普及・徹底、畜力・機械力の計画的・合理的利用)
(労力の調整其他七項目省略)
昭和一三年一月、熟田村は計画の基礎となる村の現状を綿密に調査し、昭和一六年を目標年次として、戦争を支える「銃後農村」建設の経済更生計画実行の方策と費用をまとめた。それが「熟田村経済更生計画及其の実行費」(資料編Ⅲ・三五三頁)である。これで昭和一三年の熟田村の状況と計画を見てみよう。