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昭和初めの村

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 昭和期の第一歩は決して明るいものではなく、何か将来に暗雲がたれこめているような不気味さを感じさせた。昭和二年の金融恐慌は栃木県には余り大きな影響はみられなかったが、昭和四年(一九二九)アメリカでの恐慌は急速に資本主義国に波及し、その影響は栃木県をも直撃した。翌五年には物価は暴落し、県下最大といわれた下野中央銀行が休業に入り、県内は金融業界はじめ各方面にわたり混乱に陥った。
 「昭和五年度北高根沢村事務報告」によると、村の経済状況を「下野中央銀行、下野産業銀行ノ各支店銀行ヲ主トシテノ金融機関タリシモ、一般経済界ノ不況ニヨリ業務不振ノ為メ、本県経済ニ、又金融ニ及シタル影響ハ多大ナリト信ズ」と述べており、その深刻さをうかがうことができる。財界の不況により村民のうける打撃は大きく、例えば全村民の負債額は二九八万九三七五円で一戸平均の負債額は一、九二六円にのぼっている(宇津旭著『上高小の百拾五周年誌』八〇頁)。このようななか青年たちのなかに農事研究につとめるものが現れ、例えば米作において一本植え、正条植え、自給肥料の製作及び二毛作として水田へ麦類の耕作等を行い、一方、養鶏、藁細工等も目ざましい発達ぶりを示した。青年会は自らの協力体制を維持するためにも競技会などを実施し仲間の出征などの慰労会を通し結束を図っていった。
 昭和六年(一九三一)には冷害の追打ちにより農村経済は最悪の状態となった。中等学校への進学希望者も激減し、氏家高等女学校では定員一五〇名に対し応募者九〇名となり、新聞には「入学地獄一変、募集地獄」と、また中途退学者の数も目立った。昭和七年には阿久津村では小作争議から阿久津事件がおこり熟田村では飯米闘争が起こった。凶作と社会不安の中で、農村の青少年の心もすさんでいった。大正七・八年ごろは米価が高かったためか飲酒の風が多かったというが、近年は財界不況の影響か喫煙する青少年が多くなり、北高根沢村の調査によれば、「バット(煙草の種類)ノ売行甚大ナルハ多クハ青年の需要ナリト、甚タシキハ未成年者ニシテ公然巻煙草ヲフカシ活歩スルアルヲ見ルハ矯正ノ要甚ダ切ナリ」(宇津旭・前掲書、五八一頁)と記録されている。
 昭和六年に始まった満州事変は翌七年に中国の国際都市上海に飛び火し上海事変をひきおこした。この事変の影響は北高根沢村にも波及してきた。七年二月二二日中部青年会の会員斉藤新二に突然、動員令が下った。斉藤は「国家同胞の保護と国権の維持のため」異邦上海の地に出征するのである。「血湧き肉躍る」送別会の窓外は「只無気味に吹き狂う吹雪で只々勇壮の一語につきる」(昭和七年二月「沿革史及日誌」中央青年会)状況であった。