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日中戦争前後の青年

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 北高根沢村には青年会、中部青年会の昭和二年からの「沿革史及日誌」が残されている。三冊目は昭和一一年二月から書きはじめている。その最初には次のような文がかかれている。
 
  昭和一一年二月一八日
  此日、中部分会員外中部居住者中、津川通君入営ニ付キ同君自宅前ニ之ヲ送ル、此日通君ノ晴着姿モ勇マシク、ヤガテ一同ニ向ヒ尽忠奉公ノ誠ヲ致ス可ク出征ノ覚悟ヲ述ベ、留守宅家事万端頼ムト彼、我ガ分会長鈴木精一郎氏発声ノ下ニ万歳声裡ニ乘車、一路宝積寺ニ向フ、未ダ満州建国ノ日浅クシテ前途尚ホ多難ナル今日、異郷満州ノ地ニ重任ヲ果ス友ノ身ニ多幸アレト祈ル
 
 満州の地へ重任を果たすために出征する仲間を送る気持はどのようなものであったろうか。昭和六年(一九三一)満州事変を契機に我が国は満州への侵略の歩みを強めた。国際連盟を脱退し、世界から孤立するという危険をも顧みない満州への侵略は、国民の間に一種の不安を感じさせていた。
 当時軍部は満州国支配の基礎を作り、対ソ戦にも備えるために、日本人農民の大量移民を計画していた。当時の青年たちは日本の大陸侵略政策にそって一つの道を歩みはじめた。北高根沢村では青年の時局への自覚を求め国策へ協力させることを目的とした集会がたびたびもたれた。講師には地元小学校の校長、軍人などが依頼された。しかし、青年たちが多く会合で話し合う内容は生活にかかわる農業の話で試作田の土運び、苗代のことなどが多かった。楽しみは会合のあとの余興であり、支部連合運動会でやった仮装行列やマラソンなどで高根沢健児の技を競い合うことだった。七月には三泊四日で茨城大貫海岸へ自転車での旅を経験した。秋には稲刈り、発動機による稲こき、米の調製などを行った。
 こうした一見平和にみえる生活に変化が現われるのは八月に入ってからである。八月一三日の役員会で「満支派遣軍慰問」が協議された。すでに昭和一二年七月七日日中戦争が開始され、八月には戦火は上海にまで拡大した。村の青年たちの動きも戦時色を帯びてきた。九月には全国青年団によって飛行機「青年号」二機を作るとして役員一人七冊以上の古雑誌を集めることになった。会議ではついで、「出征兵慰問金募集の件」が話し合われ、軍事映画を行うことも議題にのぼった。
 出征兵士を送る動きは昭和一二年八月一七日から目立つようになった(表23参照)。九月一七日には防空演習が行われ、実戦さながらで一朝有事に備える演習を行った。農作業などの記事は激減し、出征遺家族慰問活動が多くみられるようになった。一二月一三日南京占領の時は村の青年会、婦人会は連合で戦勝旗行列、夜は学校に集合し、提灯行列を行った。昭和一一年から一二年にかけて日中戦争をはさんで青年の動きも戦時色一色の方向に向いていった。

図28 入営前の記念写真(石末 野口定男提供)

表23 昭和11年出征兵士名
出 発 日人   名
8月17日 
18日 
21日 
9月14日 
15日 
10月15日 
16日 
18日 
24日 
11月 8日 
 佐藤益一
 見目清、斉藤翠
 小堀貞治、永井角吉
 見目敏道、斎藤秀一
 関川敏夫、小堀松一郎、鈴木森寿
 岩本清
 荒井清
 池田敬一郎 外3名
 川又照寿、佐々木茂雄 外2名
 小堀明、福田孫一、斎藤久造

中部青年会「沿革史及日誌」昭和11年2月より採録