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臨戦体制下の村

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 昭和一六年に入って我が国は臨戦体制に入った。七月二日の御前会議では対ソ連戦準備、南部仏領印度支那への進駐が決定、とくに満州に七〇万の兵力を集結させることを決めた。このようななか、農民たちには危機の迫った雰囲気などみられず自らの生活を守るため、冷夏、多雨、洪水のあとかたづけに働いていた。
 しかし、戦時体制強化の動きは各方面にみられた。七月一日村の常会では源泉貯蓄、部落農業団体実践要項に関することなど銃後の完璧を期す協議が図られていた。翌日、青少年団は役場の楼上で前線への慰問袋作りにいそしんでいた。七月七日は日中戦争勃発四周年記念日で字ごとに朝五時村社に集合し、祈願、感謝、黙禱を捧げた。一五日から三一日までの防空演習では五キロエレクトロ焼夷弾の燃焼状況、これに対する消火法の実験などが行われ、さすが臨戦下の訓練だけに初めから終わりまで張り切って好成績を以て終了した。
 青年団役員会では七月に勤労報国隊を足尾銅山へ送ることにした。また村では決戦下重要な軍需物資増産にあたり、冬期農閑期すなわち一一月より翌四月まで青少年団、青年学校生徒その他一六歳以上五〇歳以下の人々で隊を結成し、軍事工場、炭鉱、金属鉱山へ出動し食料増産に支障ない限り農作物生産の繁閑に応じ農村と工場・鉱山との労務交流を組織し恒常化することで非常時生産の二方面に貢献する勤労の決戦体制を確立しようとした。
 国民学校の生徒も国家への協力を惜しまなかった。七月には一四年度、一五年度高等科卒業生でサイレンを村へ寄贈した。また中学校生徒による報国隊、村内国民学校児童の労務動員計画も協議され、秋の収穫に万全の準備を整えていた。興亜奉公日に小学生は清原飛行場へ行軍し、航空思想の涵養にあたっていた。校長先生は戦地にいる兵士に送った「郷土だより」のなかで「七月から八月にかけて稲作に最も大切な時に多雨、冷気、台風で冠水が二回もあり心配していたが農会が先頭になって各実行組合に叫びかけ……病虫害の予防に懸命の努力を致し、九月に入り天候の恢復により作柄も頓に見直し目下黄金の波重く波打っています」と村の明るい様子をしるしている。戦地の兵士たちを心配させることは禁句であろうが、現実には馬鈴薯が前年に比べ反当たり約五〇貫の減収であった。
 「郷土だより」の中で述べている分会長、校長らの言葉は公人として私人として臨戦体制下の村民指導者として国家に対する最大の忠誠心を示したものであったろう。

図29 戦意高揚の体操(大谷 阿久津純一提供)