工事は一七年一月に開始され、一一月一日に竣工をみた。開通を前にして、その月の一五日に航空支廠への工員輸送のため、ガソリン車(C12ボギー車)二両・運転手二名・車掌二名の貸し渡し契約が成立し、一両は予備車として一両にて朝夕各一往復の運転が開始された。
運転時刻
宝積寺 鐺山
七・〇五 ― 七・二九
七・五四 ― 七・三二
一八・〇〇 ― 一八・二二
一九・〇二 ― 一八・四〇
一六・二八 ― 一六・五〇
一七・一七 ― 一六・五五 日曜日 (『宝積寺駅の八〇年』)
さらに、運転方法としては入換の方法とするが通票を携帯させるものとし、往路は航空支廠の場内信号機まで、復路は場内信号機から宝積寺駅構内を操車係の誘導によるものとした。また、夜間の気動車留置は四番線とし、給水タンクの四番線側に給水施設を増設した。
こうして、飛行場ないしは航空支廠へ多くの人々を輸送したが、終戦にともない二〇年一一月一日輸送列車は廃止され、さらに二五年一〇月一〇日路線は撤去された。
清原線は地元では鐺山線と呼ばれたが、軍用鉄道として、また三年間という短い期間であったため、今ではほとんど忘れ去られている路線である。
図30 宝積寺地内の清原線跡