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軍用鉄道・清原線の敷設

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 昭和一六年(一九四一)の太平洋戦争突入の前年、陸軍により宇都宮駅から東へ鬼怒川を隔てて現在の清原工業団地周辺(当時の芳賀郡清原村)に、陸軍宇都宮飛行場が建設された。それに付属して、宇都宮陸軍飛行学校(昭和十六年九月二〇日開校「清原地区歴史年表」)が設置され、さらに飛行場の南西部に軍用機の整備や技術者の養成のための宇都宮陸軍航空支廠が建設された。最盛期には二万人余の人々が周辺に住んでいたといわれ(吉田明雄著「陸軍宇都宮飛行場・宇都宮陸軍航空廠線―地形図にない軍用鉄道―」)、こうした状況の中で宝積寺駅と鐺山(宇都宮陸軍航空支廠)を結ぶ約一一・七キロの軍用鉄道である清原線が敷設された。
 工事は一七年一月に開始され、一一月一日に竣工をみた。開通を前にして、その月の一五日に航空支廠への工員輸送のため、ガソリン車(C12ボギー車)二両・運転手二名・車掌二名の貸し渡し契約が成立し、一両は予備車として一両にて朝夕各一往復の運転が開始された。
 
 運転時刻
宝積寺     鐺山
  七・〇五 ―  七・二九
  七・五四 ―  七・三二
 一八・〇〇 ― 一八・二二
 一九・〇二 ― 一八・四〇
 一六・二八 ― 一六・五〇
 一七・一七 ― 一六・五五 日曜日   (『宝積寺駅の八〇年』)
 
 さらに、運転方法としては入換の方法とするが通票を携帯させるものとし、往路は航空支廠の場内信号機まで、復路は場内信号機から宝積寺駅構内を操車係の誘導によるものとした。また、夜間の気動車留置は四番線とし、給水タンクの四番線側に給水施設を増設した。
 こうして、飛行場ないしは航空支廠へ多くの人々を輸送したが、終戦にともない二〇年一一月一日輸送列車は廃止され、さらに二五年一〇月一〇日路線は撤去された。
 清原線は地元では鐺山線と呼ばれたが、軍用鉄道として、また三年間という短い期間であったため、今ではほとんど忘れ去られている路線である。

図30 宝積寺地内の清原線跡