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銃後奉公会

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 軍部の予想に反して、中国戦線は泥沼化し、長期化の様相を示し、多数の青年たちは徴兵され戦場へと出征していった。出征兵士の留守家族を支える目的で栃木県では「銃後奉公会」が各市町村に組織された。熟田村にも昭和一二年(一九三七)に銃後奉公会が設けられた。その会則は設立目的を次のように記している。
 
   本会ハ国民皆兵ノ本義ト隣保相扶ノ精神トニ基キ挙村一致兵役義務服行ノ準備ヲ整スルト共ニ軍事援護ノ実施ニ当リ、益々義務奉公ノ精神ヲ振作スルヲ以テ目的トス
 
   この目的を達するための事業は次のような内容であった(史料編Ⅲ・四〇三頁)。
 
  一、兵役義務心の高揚
  二、隣保相扶の道義心を振いおこす
  三、兵役義務服行の準備
  四、現役、又は応召軍人、もしくは傷痍軍人並に其の遺族家族の援護
  五、労力奉仕其の他家業の援助
  六、弔慰
  七、慰問、慰藉
  八、犒軍(軍をねぎらう)
  九、身上及び家事相談
  一〇、軍事援護思想の普及徹底
  一一、其の他、本会の目的達成に必要なる事業
 
 これら事業の細目については評議会の議決を経て定めるようになっていて、必要な経費は会員が負担するとなっている。慰問袋作製などには国防婦人会とも協力し、慰問袋一個につき銃後奉公会は「家の光」一冊、甘味品一個、慰問文一通を贈呈している(栗ヶ島 渡辺章一家文書)。銃後の守りは各種団体代表者、国防婦人会など幾重にもなって強固にしていった。

図31 熟田村銃後奉公会々則(飯室 鈴木俊子家蔵)