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農繁期託児所

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 田植えや稲刈りなどの農繁期に幼児の世話をどうするかということはいつの時代も農家の主婦たちの頭の痛い問題だった。大正後期からの農村不況の中で、県の社会事業協会は大正一五年春から児童保護のため農繁期の託児所開設を奨励して、補助金(一か所三〇円)を出すことをきめた。阿久津村が各大字に開設の有無を問い合わせたところ、大谷で開設の計画があり、設立申請をした。大谷分教場の一部に開設する予定だったが、学校側との打合せが十分でなく、一時は申請を取り下げる騒ぎとなったが、何とか開設に向かったという。これが町域での託児所の最初と思われる。
 昭和恐慌から農村を救済するため経済更生計画が各村で実施されてくると、その担い手となった産業組合、農会は農村再建の鍵を農業の協同化に求めた。日中戦争が始まると「非常時」の掛け声のなかで食糧増産が農村の最大の使命となった。農業の協同化は村々に農事実行組合をつくり、それを一つの単位として協同化計画を立てて行われたが、一組合四〇~六〇戸の組合が多かったので、幾つかに分割して一〇戸前後で実施した。協同化の一環として昭和一五年(一九四〇)には上高根沢、東高谷(平田)、太田、桑窪、花岡の五か所で農繁期託児所が開設された。そのうちの一つ平田農繁期託児所の日誌(史料編Ⅲ・四七五頁)で託児所の様子を見てみよう。託児所が開設されたのは六月一日から一〇日までの一〇間、出席した児童数は表24のとおりで、日によって人数は違っているが、それぞれの家庭の都合で自由だったようである。日がたつにつれ子供は保母や集団生活に慣れていったようで、ブランコや滑り台での自由な遊びばかりでなく、遊戯、旗取り等の団体遊びも夢中になってやるようになった。集会や帰りの解散の時に神社を礼拝する子も増えていった。保母たちは遊戯の指導、紙芝居、ぐずる子の世話と大忙しだった。
 間食・おやつは午前、午後ともにアメ玉、キャラメル、せんべいなどで、子供たちも待ち遠しかったに違いない。村からは村長、助役、方面委員が視察にき、校長先生や愛国婦人会県支部の人たちの視察・せんべいの差し入れもあった。村の婦人会からは菓子の差し入れもあった。こうして、一〇日間の託児所は無事終了することが出来た。
 翌一六年は北高根沢村が県の「労力調整指定村」となり、共同農作業、共同炊事、共同保育を実施して、少ない労力の活用方法を研究することになった。そのため農繁期保育所も、花岡(地蔵寺)、東高谷(熊野神社)、太田(北高根沢村国民校)、上高根沢(同国民校)、桑窪(同国民校、徳明寺)の五か所で開設され、学校の教師、寺の住職などが主任になって運営された。氏家高女の生徒たちも勤労奉仕に来て四、五人ずつ各保育所で手伝った。この後も強い食糧増産の要求に応えて農業の協同化が進み、農繁期託児所はその重要な施設として運営された。
 
表24 平田農繁期託児所出席児童数
1日2日3日4日5日6日7日8日9日10日
18名202527362530464535
24名253335354627353557
42名455862717157818092

史料編Ⅲ・475頁より
 

図36 大谷村の農繁期託児所(大谷 阿久津純一提供)