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緒戦の勝利

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 一二月八日の興奮はその後しばらくの間つづいた。臨時ニュースは八日、日本軍はマレー半島東岸に上陸したことを伝え、一〇日には午後四時二〇分の臨時ニュースで海軍航空隊が「不沈戦艦」プリンスオブ・ウェールズ号をマレー半島東海岸沖で撃沈したことを報じた。
 日本軍の戦果はそのあともつづいた。香港を開戦直後の一二月二五日に陥落させ、グアム島を一二月一二日に占領、さらにフイリッピン諸島に上陸、昭和一七年一月二日にはマニラを占領、五月にはフィリピン全域を支配下に収めた。
 我が国は、緒戦の勝利を支えるため、開戦の八日を記念して従来の興亜奉公日を廃止し、その主旨を発展させるため、翌一七年一月八日を第一回大詔奉戴日と定め戦争意識の向上にあたった。大詔奉戴日には戦争完遂のため、また必勝の国民的士気をたかめるため官庁、学校、会社などでは詔書奉戴式を行い、各家に国旗を掲揚し、神社、寺院では必勝祈願の行事を実施した。
 戦争の勝利を確実なものとし、国民を熱狂させたのがシンガポールの陥落である。二月一五日マレー半島を追われたイギリス軍は、午後七時五〇分に日本軍の軍門に屈した。一八日には全国で「戦捷第一次祝賀式」が行われ、勝利を祝う祝賀行事が繰り広げられた。まず陥落の日より入城式終了まで全国各家では国旗を掲揚し、祝賀式当日は全国民が各々の場において戦歿将兵の英霊と皇軍の武運長久を祈念し、東条内閣総理大臣の放送を聞き万歳を三唱した。国民の間には「大東亜決戦の歌」がうたわれた。「東亜侵略百年の野望をここにくつがえす。いま決戦の時きたる」この歌声は巷にひろがっていった。村には祝賀用として一戸に二合の清酒が配給され勝利の美酒に酔いしれていた。シンガポール島は二日後に「昭南島」と命名された。
 第二次祝賀行事はジャワ島完全占領によって実行された。マレー、フィリピン作戦が順調に進んだため蘭印作戦も一月段階で作戦の火ぶたが切られた。三月一日にはジャワ島に上陸バタビヤ(ジャカルタ)を占領し三月一日にバンドンに入城し、ジャワ島を完全占領した。我が国はますます大東亜戦争完遂の決意を固めるため三月一二日を「第二次戦捷祝賀日」として祝賀行事を行った。北高根沢村でも村長は各実行組合長に祝賀行事について連絡し、国旗掲揚、兵士の武運長久を祈った。
 戦争により仏領インドシナ共同防衛に関する日仏間の軍事協定が成立し、ジャワ島の支配により当時統制下にあったゴム製品のうち記念として国民学校の生徒に新しいボールが配給された。
 戦勝のたびに生徒は校庭に集合して校長先生から日本軍の活躍を聞かされ、日本は勝つのだ、勝つものだと信じこまされていった。