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金属回収

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 日中戦争の長期化、続く日米開戦により国民生活はすべてにわたって苦しくなった。昭和一三年の国家総動員法、一六年には生活必需物資統制令が公布され、戦局の、悪化とともに物資不足は深刻になった。とくに政府は軍需不足を補うため物資の回収運動を展開した。なかでも各家庭にある銅、鉄をはじめとする金属類の回収は戦争遂行上欠かせないものとして町国民に課せられた。
 すでに、昭和一四年(一九三九)商工省は鉄製不要品の回収をはじめ、郵便ポスト、ベンチ、広告塔などの回収も開始した。次いで翌年一〇月、大蔵省は金の買上げ運動をはじめた。一六年八月金属回収令が出されると、一〇月一日の興亜奉公日を「戦争物資動員」の日と定め、金属類はもとより其の他戦争に必要な物資の回収に国を挙げて取り組むことになった。家庭における供出物は門扉、鉄柵、手摺、欄干、天水桶、鉄瓶、その他の鉄製品、押板、破損止金物、泥拭器、傘立、火鉢、その他銅製品などであった。
 北高根沢村では金属類特別回収について回収物品の譲渡集荷を一一月一〇日より一二月二五日までの期間とした。回収に当たっては部落会、隣組単位に回収班をおき、売却は隣組を単位とした。班長は集めた品物の保管にあたり売却に立ち合うことになっていた。集められた銅鉄製品は青少年団、警防団員、その他労力奉仕班の人たちによって荷車やリヤカーに積まれて村役場に集められた。金属回収及び立合人は表27のとおりで金額は普通鉄一キロ約八銭、銑鉄一キロ約八銭、銅・真鍮類一キロ約七〇銭六厘で回収された。戦争が長引くにつれ、金属類の不足はますます深刻になっていった。金属回収運動は常会の重要な課題となり、隣組はもちろんのこと学校や職場を通して「根こそぎ動員」がはかられた。戦争が末期状況に入った昭和一九年(一九四四)一一月には一〇〇機以上のB29によって東京が初爆撃をうけた。村でも一一月一三日「緊急軍需資材回収ニ関スル臨時常会」が開かれ、火薬原料綿特別回収、銀非常回収、金属製品一般家庭等回収が話し合われた。一二月に実施する事項には食料増産、貯蓄増強、松根油緊急増産、藁工品の増産、空襲対策などがあったが、中でも金属回収が重視された。特に銀の回収には熱が入り、第一回の非常回収は目標に対し悪い成績であったため一二月中には「銀ヲ根コソギ」動員し、目標突破に協力を要請した。金属製品の家庭等回収にあたり、廃品、不用製品、余剰品を徹底的に回収すること、特にアルミニュウムについては徹底回収にあたらせた(「上柏崎区有文書」)。このように金属回収運動は戦争が終わるまで繰り返され、生活の中から金属品は消えていき、暮らしの逼迫感はいっそう強まった。
 
表27 金属回収班及立会人
月 日立会人買出人部    落
11月20日仁平義男片岡清吉上高根沢
川原耕之川島寅次郎栗ヶ島、寺渡戸、西高谷
〃 21日仁平片岡花岡
川原川島平田、太田
〃 22日川原片岡桑窪
仁平川島台新田
〃 23日仁平片岡中、下柏崎
川原川島前回収所の残部

上柏崎区有文書より