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物資の供出

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 太平洋戦争が開始される前の一六年八月に金属回収令が出されると、物資の供出は更に本格化した。金属類のほかさまざまな物資が物資不足を補う必要から供出させられた。その一例にウサギの毛皮がある。兵士の防寒用の毛皮をとるためウサギの飼育が盛んに奨励され、農会、隣組、婦人会、学童などによって飼育され供出された。昭和一六年(一九四一)一二月の農事実行組合長会議ではウサギ毛皮供出のことが話し合われていた。翌一七年になるとさっそく北高根沢農会はウサギの出荷を一月に行ったが、三月にも出荷日割をきめている。一二日・新角屋前、一三日は農会事務所前、一四日は花岡国民学校付近と部落組合長、養兎組合長あてに出している。また、軍馬の飼育として藁や干草の供出が部落ごとに割り当てられた。昭和一六年八月には軍用の干草供出が表28のように割り当てられた。干草は一梱を重量二五キロとし、容積も高さ〇・六メートル、幅〇・七メートル、長さ一メートルに梱包し供出するようにした。藁の重要性も昭和一六年ごろより強調されはじめ、稲藁の他地区への移動は禁止されるようになった。敵が本土に迫る昭和一九年(一九四四)一二月ごろは藁加工品(叺、筵、縄など)の需要は軍の整備、防空並びに疎開用等が激増してきたため、供出割当数量の確保に迫られた。当初は肥料空叺回収であったが、一七年五月には軍用空叺の供用が要求されてきた。「縄やむしろが足りないと荷造りはできません……かますが足りないと肥料の配給もできないばかりか兵隊さんの食糧にも差しつかえます」といった回覧板が部落内をまわった。戦争が激化するに伴い火薬の原料として純綿の回収が緊急軍需資材の特別回収として新たに加わった。また繊維不足により棕櫚皮の利用が増加し、剝皮可能の棕櫚を隣組で調査し、一七年四月二〇日までに報告することになってた。物資の不足は深刻化し、県では肥料の配給に必要な麻袋の不足を訴え、回収には特段の配慮を要求している。容器の回収不良はその結果として中味物資の配給に支障をきたすとしている。銃後の人々は、ただ勝利することを信じ、老若男女、学童に至るまで供出、回収作業にかりだされていった。
 
表28 軍用干草供出部落別割当表
部 落 名
  
供出
数量
部 落 名
  
供出
数量
部 落 名
  
供出
数量
上高 第一35西高谷18中郷48
   第二30花岡西下第一14太田第一35
   台ノ原11 〃  第二21  第二28
   中組東44 〃 関俣24桑窪上組24
   〃 西57 〃 井亀28  中組34
   西根東28 〃 東上38  下組40
   〃 西16 〃 東下39上柏崎50
金井  上38 〃 親和5亀梨40
    下24東高谷第一42中柏崎30
栗ヶ島50  〃 第二10下柏崎27
寺渡戸42上太田30

上柏崎区有文書 昭和16年8月