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松根油掘り

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 昭和一九年(一九四四)六月アメリカ軍は本格的にサイパン・テニアン・グァムなどマリアナ諸島の攻撃に着手した。サイパン島にはアメリカ軍四個師団が上陸し、七月七日には四万三〇〇〇余名の日本軍のうち四万一〇〇〇余人が玉砕する悲劇をみた。この戦局の危機に東条英機は辞表を提出し、内閣総辞職をした。
 アメリカ軍がマリアナ諸島を陥落したことによって日本本土爆撃が可能になり、一一月二四日、サイパン島を飛び立ったB29一〇〇機以上の大編隊が東京を爆撃した。一方、沖縄本島では一〇月一〇日アメリカ機動部隊が攻撃を加え、これに対し神風特別攻撃隊が編成された。フィリピンではアメリカ軍がレイテ島に上陸、フィリピン沖海戦で日本の連合艦隊は戦艦三、空母四隻外、計二九隻が撃沈され、我が国は海上の戦闘力を完全に喪失した。
 このころ、全国の農村では食糧増産こそ勝利への道と信じて人々は農作業や供出に励んでいた。高根沢地方でも大本営の大戦勝の報を信じ、来るべき次の反撃に備える作業に取り組んでいた。
 昭和一九年一二月一五日、北高根沢村長は各部落会長あてに「刻下日米激闘の勝敗に繋る緊要の事項」として一二月中に実施すべき主な事項について総力をあげ、目的達成を期すよう訴えた。
 主項目をみると第一に食糧・増産・供出である。米の供出について米の早期供出の必要、供出完遂の目標期日まであらゆる努力を傾注することがあげられている。それに関連して堆厩肥の増産のため落葉、枯草、麦稈などの蒐集に努めることとしている。次に貯蓄増産で四一〇億貯蓄増強期間を設け、そのため大東亜戦争第三周年記念貯蓄として隣組貯金を倍額にすることを実行するというのである。もちろんこれに伴い職域国民貯蓄、組合貯蓄、国債貯金の倍増も訴えている。
 当時、軍にとって最も急を要するものは松根油の生産であった。我が国がさらに戦争をつづけるうえで深刻な障害となったのは航空燃料の不足であった。もともと石油資源はゼロに近く、海外からの輸入が激減したため航空燃料は決定的に不足した。「石油の一滴は血の一滴」という標語が示すように石油は重要な燃料だったからこのころ既にバス、トラックは木炭や薪で走るようになっていた。そのため松の根からとれる松根油を航空機の代用燃料にしようと全国的に松根掘りが行われ、各地で松並木の松をはじめ山や林で多くの松が伐採されていった。
 北高根沢村でも一九年の一二月には割当目標の半額達成を一つのめあてに、農作業の暇をみて松根掘りに努力するように訴えた。戦争が激化し、危機が本土にせまった昭和二〇年六月、本土決戦に備えて国民義勇隊が組織された。県の六・七月の林業に関する動員計画をみると表30のように松根掘取、松根乾溜にいかに多くの人たちが動員され、従軍したかをしることができる。六月、村長は上柏崎の部落長に対し松根の出荷について第一回割当量四八六貫八〇〇匁を六月一九日までに平田と太田の境の松山地内の松根油乾溜工場へ出荷するよう要請している。工場に集められた松根から油を製造したくても当時農繁期で労力不足のため操業が思うようにいかず、村長は各部落会長あてに時局がら欠かせない航空燃料増産のため、食糧増産作業を考えたうえ、適任者を七月三日までに五名出してもらうよう連絡している。七月段階で新たに松根搾油工場が完成し、四基が操業を開始したが、問題の松根搬入がおくれ、かさねて責任出荷を要請するありさまであった。このような依頼が相次いで提出されているが、七月一六日付の依頼状は、戦況の厳しさを「戦況日ニ急迫ヲ告ゲ、松根油増産ノ緊急事タルハ既ニ熟知セラルヽ処ニ候」と述べ、増産計画に基づき全釜連日運転突撃増産にあたるよう訴えている。このときは、上柏崎部落は一班五四〇貫目、二班六六〇貫目、三班七二〇貫目、四班六〇〇貫目、五班六〇〇貫目、六班七二〇貫目と割り当て、この松根の現場搬入日を八月四日としている。敗戦を一〇日後にしてのこの状況は余りに厳しいものであった。それでも日本国民は勝利を確信してあらゆる面で励んでいた。
 
表30 林業に関する6、7月動員計画(栃木県)
事 業 種 別6 月7 月
    人    人
伐 木 運 搬10,00010,000
炭 材 伐 採1,8001,800
薪 木 炭 運 搬4,2004,200
松 根 掘 取43,75043,750
松 根 乾 溜57,50057,500

6、7月における義勇隊行動に関する資料より