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空襲の本格化

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 昭和一九年(一九四四)七月サイパン島はアメリカ軍の手中に入り、長距離爆撃機B29の一大基地が完成し、一一月ごろから本土空襲が本格化した。一一月一日午後一時二二分関東地区に空襲警報が発令になった。警報は午後二時五五分に解除になったが阿久津村警防団は直ちに警備体制に入った。まず北高根沢村の農業倉庫、阿久津村の農業倉庫、県購販連倉庫に各二名が配備され、その他日通倉庫、停車場にも二名が配備された。また鉄道への監視を強め鉄橋に四名、鉄道踏切に二名をおき、団長以下総人員一七八名が警備に当たった。午後二時五五分に解除になったが、このころから高根沢町域に無気味なサイレンが鳴るようになった。当時、警戒警報、空襲警報は例えば大本営発表で「関東地区○○警報発令」と関東地区全域に発令になったのである。一一月には空襲警報が発令になったのは七回、この前には必ず警戒警報が発令になるのだから戦争の危機は警報によって人々の身に泌みていった。一二月三日は午後一時三三分警戒警報が発令、一二分後に空襲警報が発令された。「防空日誌」には当時の警備状況を次のように記されている。
 
  空襲ニ対スル配備完了ス、団長以下一二六名(一四時〇五分)
  一、人心ノ動向、平静ニシテ異状ナシ
  一、右十四時九分、報告済
  重要施設警備完了
  一、北高倉庫、農業倉庫、県連倉庫、丸通倉庫、停車場各二名宛十名警備
  一、宝積寺鉄橋四名、非常米二十六俵
  一、右十四時二十分完了、仝上報告一五時〇分
 
 このときは警察署長より「本日ノ空襲ハ鉄道破壊ノ目的ニアリ依ッテ其ノ筋ノ警備ヲ厳ニスル事」との指示が出された。空襲警報は一二月中にその後一二回発令されているが、一日に二回発令になったのは七日と一二日である。七日は午前一時四七分と午後六時一〇分である。このときは「人心ノ動向平静、警備体制団員防空群士気極メテ旺盛ナリ」としるされている。一二日は午前七時三五分に発令され一八分後の解除になっている。さらに午後九時二六分に発令になり、間もなく解除されている。二四日には警戒警報中であったが午前四時一七分ごろ「宇都宮上空方面ニ爆音アリ」と連絡があり不気味な動きがみられた。このようなこともあり二八日の空襲警報の際は屋外の灯火及び管制に充分注意するよう警察署より通達があったが、通達からみても当時国民の間にはまだ甘い認識しかなかった。
 昭和二〇年に入って空襲は少なく一月はわずか二回で経過したが、警戒警報は一五回とほとんど連日のようであった。二月に入って様相は一変した。表32にみられるように空襲警報が発令になった日は六回あったが同じ日に複数の発令が出たのは一〇日、一六日、一七日、二五日と四回を数える。特に二月一〇日は午後二時一五分空襲警報が発令され、三五分後の二時五〇分には敵機が九〇機来襲し、西町、東町、天神坂に待避命令が出された。上空に飛来しただけで影響なく午後三時三五分に解除された。同日午後九時二二分警戒警報が発令されたが、偵察機一機が関東西北地区を旋回したのち信越東南部に向かい、さらに反転、関東西北部より東南に、京浜地区を通過後、さらに東南進ののち東進して南方海上に脱出するという動きがみられた。当時の空襲は主に高度一万メートルからの主として軍事施設と軍需工場の爆撃であった。しかし、この方法は三月に入ると大都市の工場地帯と住宅密集地に対する焼夷弾を用いた低空爆撃法、無差別爆撃に移っていった。その象徴的な空襲が三月一〇日の東京大空襲である。
 三月一〇日以前の空襲警報は二月二五日でこの間、約二週間はまさに無気味な期間であった。二月二五日には二度空襲警報が発令された。このとき警備に関して二つの指示が出されている。まず「警備体制ノ強化ニ関スル件」でここでは「本日ノ空襲ハ相当長時間ニ亘ルモノト予想セラル、ヲ以テ、東部軍管区情報ニ基キ警備ノ完璧ヲ期スベシ」と、次いで「空襲警報解除後ニ於ケル警備ニ関スル件」では「本日空襲警報解除セラレタルモ、警戒警報下ニ於ケル警備ハ相当強化シ違算ナキヲ期スベシ、以テ要所要所ノ防護監視員ハ継続勤務スベシ」と警防団への注意を喚起している。このような伝達からも空襲の変化は軍当局には予測ができていたことだったのかもしれない。

図39 戦時下の多くの記録を保存した野沢茂堯(初代阿久津町長)(石末 野沢俊子提供)

表32 2月、空襲警報発令の日時
  月   日時   間
2 月 4 日   8. 37分
10日  14. 15分
〃   21. 22分
16日   7. 09分
〃   10. 47分
17日   7. 30分
〃    9. 42分
〃   12. 02分
19日  14. 59分
25日   7. 40分
〃   14. 10分

「防空日誌」より