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高根沢の空襲

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 アメリカ軍による本土空襲は三期に分けて考えられる。第一期は昭和一九年にはじまり翌二〇年三月初旬までで高度一万メートルからの主として軍事施設と軍需工場を爆撃するものであった。第二期は三月一〇日の東京大空襲から五月までで東京・大阪・名古屋・神戸といった大都会の工場地帯と住宅密集地に対する空襲である。第三期は大都市を焦土と化した後の六月から敗戦までの時期で地方都市が標的とされ焼夷弾によって焼きつくされたばかりでなくグラマンF6Fなどの戦闘機による機銃掃射が加えられ、より多くの犠牲者を出した。また茨城県では海上からの艦砲射撃をうけるほど戦局はさしせまった状況になっていた。
 栃木県への空襲が激化したのもこの時期で七月一二日の宇都宮空襲はそれを示している。第三期で集中したのは七月である。この間、高根沢地域には空襲警報は一三日出され、そのうち一〇日には午前五時一八分、八時二五分、一〇時一〇分、午後二時一〇分と四回を数えた。また、三〇日は午前五時四五分、九時〇五分、一一時二〇分、午後一時一六分、三時二五分と五回でこの間の警戒警報を数えると休みなしにサイレンの音を聞いている状況であった。
 昭和二〇年七月一〇日午前一〇時一〇分に空襲警報がなった。普通は一時間前後で解除されるが、その日は一二時になっても解除にならなかった。警防団の報告によると(史料編Ⅲ・四二〇頁)一二時一二分ごろ、敵機五機が阿久津村役場上空を西方に向かっていたが、うち一機が急旋回して宝積寺駅へ着いた列車から降りる客をねらうように機銃掃射をあびせ六名の死傷者を出した。警防団本部も二、三発弾丸をうけたが被害はなかった。機関車も被害をうけ、取りかえて一二時五五分発車の予定になった。
 空襲での死傷者は次の人々である。
 
死亡 宮城県柴田郡大河原町尾形町二一六
        佐藤慶吉方 山内直次郎
負傷 福島県白河町登原町二〇 近藤吉太
死亡 那須郡那須町高久橋本町 田村利造
死亡 塩谷郡片岡村駅前    山本博美
死亡 長崎県下県郡厳原町久田道六二六
               藤 太郎
負傷 福島県安達郡下河崎村開拓山九七四
              野地ユキ子
其他 負傷男一名(軍人)女一名(六〇歳前後)
 
 この事件で警防団の本部員はもちろん、第七、一〇分団と駐留していた常盤部隊の応援をうけ死傷者を一まず常盤部隊医務室に収容し、軍医及び地元の赤羽医師の協力で救護の手配をした。阿久津村が敵機によって攻撃をうけたのは初めてで驚きは非常なものだった。特に鉄道への攻撃があったことはあらためて鉄道のもつ意味、鉄道復旧作業の重要さを認識させた。阿久津村ではさらに復旧作業動員計画書を作成している。それには鉄道当局の要請にしたがい協力団体を編成するが本村民中より男子三〇〇名を最大限度とすることや、必要な資材器具の調達には万全を期すといった内容が記されている。艦載機の攻撃はその後も続いた。
 七月三〇日、その日は月曜日で晴天であった。朝五時四五分早くも空襲警報がなった。当時宇都宮女子商業学校に勤めていた田代ユキヱは日記に次のように記している。「朝出勤ノ途中宝積寺デ退避シ、次イデ岡本ヘ行ク途中、機銃掃射ニ会ヒ、マタ歩イテ帰宅ス、山ノ中ニ伏セヲセシモ生キタ心地ハシナカツタ」と。午後三時二五分また空襲警報が発令になった。このころは空襲警報がなるとすぐに機銃掃射を受ける。宇都宮空襲後、焼跡整理に多くの人が出て働いていたが敵はこの人たちに向かっての攻撃である。グラマンによる波状攻撃が三〇分くらい続いて退去していく。この時も警報後わずか五分位で宝積寺駅付近が、機銃掃射をうけた。『東町の歩み』(吉沢武著)によると「七月三〇日午前八時半頃、艦載機三機が編隊を組んで阿久津国民学校あたりの上空を鬼怒川方向に向って飛んでいたが、鬼怒川にさしかかったあたりで先頭の一機が翼をふって合図すると三機とも反転して、駅付近をめざして急降下して機銃掃射を加えた。ちょうど宝積寺駅には客車が停車していて急降下して機銃弾を受け即死者一名、負傷者六名(うち四名は午后死亡)をだした。駅の休憩室、駅長室も機銃の貫通被害をうけた。また阿久津村役場でも村長席前方あたり、屋根から床にぬける貫通被害があった」という。また田代さんの日記には「仁井田ハ丸通、池田自転車店、安波肥料店、三好ソバ屋等ニ弾丸命中セルモ人ニ被害ナシ、火災モ中途ニテ消シトム」とその時の状況が記されている。八月を迎えるころ、関東地区は茨城沖の空母レキシントンの艦載機グラマンによって思いのままに攻撃されていた。敗戦を目前にした八月一三日の空襲警報はいつまでも解除にならなかった。まず朝五時二六分に発令、解除は一〇時三〇分と約五時間の間、警報下におかれ、ついで三〇分後に再び空襲警報が発令になり約四時間も続いた。この間、第一波は一一機で宇都宮飛行場を攻撃目標においたが雲に覆われていたので予定を変更し大田原の金丸原飛行場を攻撃した。その後も二波、三波とこれら飛行場を攻撃し、多大な被害を与えた。我が国上空は米空軍の思うままであった。