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米の統制

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 昭和一二年(一九三七)七月、蘆溝橋事件に始まった日中戦争はたちまち戦線を拡大し、一二月には南京を占領して「南京大虐殺事件」を引き起こした。日本政府は一時戦争終結工作を行うが、中華民国への過大な要求のため失敗すると、近衛首相は「国民政府を相手にせず」という声明を発表して、自ら長期戦への泥沼へ足を踏み入れていった。国内では戦争反対者を「人民戦線事件」などで検挙し、日本無産党、労働組合総評議会などの反戦勢力も解散させて、国民の反戦運動を封じこめた。
 昭和一三年四月、近衛内閣は「国家総動員法」を公布し、戦時経済統制を強化していった。既に昭和一二年から金融・貿易に対する統制が始まっていたが、一三年に入ると電力の国家管理も始まった。昭和六年成立の重要産業統制法とあいまって国家による経済統制は急速に進んでいった。
 農村に対しては昭和六年から米価支持政策をとっていたが、昭和八年にはこれまでの米穀法に代えて米穀統制法を制定し、政府があらかじめ米の最高、最低価格を決めておき、最低価格で政府が買い入れ、最高価格での売却を無制限に実施して米価の安定を図っていた。戦争の長期化と軍需産業の発展で都市労働者が増加してくると、軍用米と都市向けの米需要が増えて、昭和一四年には米穀配給統制法、次いで価格統制令が公布された。翌一五年(一九四〇)には政府による米の強制買入(供出)と配給切符制が始まり、昭和一六年には生活必需物資統制令によって全面的に配給制となって「米穀通帳」が全国の家庭に配られた。主食の配給基準量は一人一日二合三勺であった。そして、昭和一七年(一九四二)には最近まで続いていた食糧管理法が成立し、米麦など主要食糧のすべてが国家の管理下に置かれた。産業組合や新設の食糧営団だけが食糧の集荷・配給の仕事をすることになり、地主か小作米を商品として売るという米の流通ルートはなくなった。