農繁期の中学生の勤労奉仕も一六年から始まったが、最初に村へ来たのは五月三一日~六月一四日の田植の共同作業・共同炊事に来た宇都宮実業学校生徒である。栗ヶ島第一農事実行組合には一〇名きて作業に励んだ。秋には九月一三日から二〇日までの八日間、清原農学寮の寮生三〇名が北高根沢村へやってきた。受入側の村には「食糧増産報国推進隊」が組織されており、その推進隊員が各農事実行組合にいて世話役をした。寮生らは共同作業の稲刈り、脱穀に参加するのを原則としていたが、時期が少し早かったので組合によっては田稗抜き取り、九月一五、一六、一七日の三日間に出荷する軍用干草の荷造り、麦奴予防などの作業を行った。彼らは昼食持参、鎌などの簡単な農具も持ってきた。清原農学寮は当時「農民道場」とも呼ばれていた、かつての産業組合の学校だった。第一日目は栗ヶ島第一~第三の農事実行組合へ五人ずつ、寺渡戸農事実行組合へ一五人、二日目は金井上・下、西根東・西、簗瀬というようにほぼ村内全域で作業に励んだ。当時、北高根沢村は共同作業・共同炊事・託児所の運営が優れていると、高く評価されていて、知事や県農会などの視察が多かった。農学寮生徒の来村もそれと関係があったのかもしれない。
一〇月一四日から二四日(一七、一八日休み)の九日間矢板農学校生徒二班(二八名)、一四日~二五日(一七、一八・一九日休み)の九日間、氏家高等女学校生徒二班(三四名)が勤労動員で北高根沢村へ来た。農学校生徒は各農事実行組合に一日ずつ配属されて稲刈り、脱穀を手伝い、女学生たちは託児所と共同炊事場へ配属されて手伝った。男子の労働時間は六時間、女子は五時間と決められていたが、受け入れる農事実行組合のほうも指導や農具の準備など気を使ったようである。この年を始めとして、終戦まで毎年近くの学校のみならず、宇都宮中学校、宇都宮農業学校をはじめ女学校からも勤労動員の学生が農繁期の村を賑やかにしていた。
図43 女子学生も苗とり作業(栗ヶ島 渡辺章一提供)