一九年は全国的には不作で植民地米も移入が困難になっていた。県内でも市町村の食料需給計画をたてていたが、かなり節約しても不足する見込みとなり、不足分は生産者、地主の保有米から「調整米」という名目で供出させることになった。その量は玄米二万五〇〇〇石であった。ただし米の代替物(麦類、雑穀)でもよかったが、食糧事情はすでに農村地帯からこうした方法をとってでも食糧を徴集せざるを得ない所まできていた。
昭和二〇年(一九四五)に入ると、前年から始まった本土空襲は激しさを増し、三月一〇日の東京空襲のあとは地方都市の空襲も多くなって、戦争は終末へ近づいていた。
一九年一〇月末に松根油採取が閣議決定された。栃木県は海軍の飛行機、船舶用の松根油を分担し、海軍技術部員や兵が多数派遣されてきた。しかし、作業は手作業で、能率は上がらず、最初に出荷したドラム缶が海軍基地に到着した時は終戦になっていたという。
最後まで徹底抗戦を叫ぶ政府のもと、農村地帯では食糧増産の掛け声の中、増産計画が次々につくられ、男手の少ない村民の上に覆いかぶさっていた。二〇年六月に出された「食糧増産学徒開墾動員要領」では地域別学徒隊(国民学校高等科)、青年学校学徒隊、中等学校学徒隊で県全体で一、三〇〇町歩を開墾し秋麦、馬鈴薯、蕎麦を作るよう指示している。阿久津村四五町歩、熟田村二九町歩、北高根沢村八〇町歩が割当てだった(史料編Ⅲ・四九六頁)。さらに甘薯の収穫をふやすため現在植えてある物への肥料のやり方を緊急に指示している(史料編Ⅲ・四九九頁)が、これからはいずれも机上プランに終っていた。同年の「麦類及馬鈴薯供出要項」は麦類の供出時期を八月一五日までとしているのが象徴的であるが、割当分供出を督励する項では
供出数量確保はあくまで部落責任とし、隠匿、不正取引の防止に対しては厳重なる措置を講じ、悪質者、供出忌避者は断乎制裁を加え、反戦者として措置すること
とややヒステリックなほど割当完遂を強調している。こうした状況は、空襲による都市工業と交通機関の破壊、肥料や農耕具不足による田畑の荒廃を考えると、もはや、戦争を支える「銃後」は崩壊していたことを示していた。