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農村不況と教育

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 昭和四年(一九二九)の世界経済恐慌に直面し、栃木県下の物価は暴落し、大正一五年(一九二六)米価一石当たり三六円七六銭が昭和六年には一六円五二銭と下落し、農村は悲惨な状況下におかれた。阿久津村は本県でも代表的な稲作地帯で、当時の稲作の平均反収は五俵前後、小作料は五割から六割八分に及んでいた。昭和六年は特に作柄が不良で小作人は飯米にも困る状況であった。地主と小作人の反目は表面化し、翌七年一月労農大衆党と大日本生産党が衝突し、いわゆる阿久津村事件が起こった。昭和六年の県北地帯は凶作に見舞われ、「下野新聞」には「―県北凶作地方を行く―うえとさむさになく、小児よ何処へ、学童の半数に弁当はなく、気遣われる其健康」というショッキングな記事が報じられている。北高根沢桑窪小学校職員児童一同は放課後の落穂を拾い集め売却した三円五〇銭を県北救済金にいれている(「下野新聞」昭和九年一二月一六日)。
 農村の不況が深刻化すると、当時村の財政支出の約三分の二が教育関係予算ということもあり、教員給与が集中的に削減された。昭和六年(一九三一)一〇月、県教育課が調査した教育俸給一か月以上の未払い村は全県で七四か村に及び、塩谷郡では一か月未払い三か村、二か月未払い四か村、三か月未払一村、四か月未払三村、六か月以上一村、計一二村といった状況であった。県当局は、昭和九年四月二六日、当時三か月以上の給与未払いの二四か町村の小学校長を召集して実態調査を行っている。このうち塩谷郡では箒根村(現塩原町)栗山村、大宮村(現塩谷町)の三村で高根沢町域村は含まれていなかった。県は町村に対し役人を派遣し、財政調査を行い、町村民協力して財政更生に努めるよう指導する方針をとった。この結果、塩谷郡では矢板町(現矢板市)阿久津村(現高根沢町)那須郡では向田村(現烏山町)、馬頭、大山田(現馬頭町)などが著しく整理の成績をあげていると報じられている(「下野新聞」昭和九年七月一四日)。
 職員の給料問題について史料不足で町域の全体的な給料未払いの動きを把握することはできないが、ここに阿久津尋常高等小学校大谷分教場の賞与を通し給料不足面の一面をみることにする。表38は昭和二年から一六年までの分教場三名の年末賞与の変遷である。表中で注目されるのは昭和六年が賞与ゼロになっていることである。昭和六年度は阿久津村は厳しい状況下にあり、翌七年一月には阿久津村事件もおこっている。この不況は急に回復することなく、翌七年度の賞与は主任が二円、一般教員は二人とも一円五〇銭という低い金額であった。昭和八年度にはやや回復するがまだ充分な復活はみられず、一三年まで六年間、主任級八円が続いて一応回復をみたのは昭和一四年からで、一六年には主任五五円一般訓導四二円とあがり、年末に臨時手当が各一〇円ずつ支給された。
 給与不払い問題について昭和九年一二月県会で菊地学務部長は、根本的解決は農村復興以外に方法はないとし、農村の経済更生計画の樹立が先決であるとして教員がこの計画に協力し、村のたて直しに積極的に協力することを説いた。
 
表38 阿久津尋常高等小学校大谷分教場職員賞与一覧
職 員 名賞 与職 員 名賞 与職 員 名賞 与
  昭和2年細先生18円猪瀬先生10円西村先生6円
 〃 3  〃22   〃14   〃9 
 〃 4  〃22   〃13   〃9 
 〃 5青木先生13   〃8 細(女)先生5 
 〃 6  〃0   〃0 0 
 〃 7  〃2 西村先生1.5 阿久津先生1.5 
 〃 8  〃8   〃5 加藤先生4 
 〃 9  〃8   〃4   〃4 
 〃 10  〃8   〃4   〃3 
 〃 11  〃8   〃4   〃3 
 〃 12
  〃
7 
西村先生召集
加藤先生
4 
青柳先生
2 
 〃 13  〃8   〃6 西村(女)先生4 
 〃 14鈴木先生20   〃16   〃8 
 〃 15復職西村先生31   〃31 伏木先生25 
 〃 16西村先生上24 杉田先生上13 鈴木先生(沮)上17 
下30 下21 下17 

各年度「校務日誌」より作成