このような傾向は「御真影一(天皇・皇后の写真のこと)の下付についてもみられた。明治期に教育勅語がすべての学校に下付されたのについで御真影の下賜は一部明治二三年を中心に行われたが、普及は大正期以降で、大正期についてみると大正四年と六年の二回である。大正四年は一一月の即位式を前に下賜され、対象は高等小学校及び高等科併置の小学校以上の学校であった(籠谷次郎著「わが国学校における「御真影」について」(下)「日本史研究」一六〇号)。阿久津尋常高等小学校も一〇月二九日に拝戴している。
昭和期に入って昭和三年一一月、天皇の即位式を前に学校種別の区別なく「御真影」は尋常小学校も含み下賜され、この時期に天皇の神聖化が前面に出てきた。神格化が強くなるにつれ、「御真影」や勅語の管理が問題となり校内の奉安室ではなく、校庭に別個の奉安殿を建設することが表面に現われてきた。全国的に奉安殿が多数建設されたのは一九三〇年代である。
上高根沢尋常小学校では、昭和二年(一九二七)一一月一七日村会の議案として「上高根沢尋常小学校御真影奉安所建設ニ関スル件」が提出された。議会では奉安殿は宇津権右衛門以下三五三名の寄附により、校庭に鉄筋コンクリート作りで、前面上額に菊花の紋章をつけるという内容が報告され、同日決議された。村長は菊花の紋章は禁止されていることを知り桜花の紋章に変更して知事あてに建設許可を申請した。こうして九月二日御真影奉安所並びに周りの石垣の新設工事に着手し、翌三年二月一八日に竣工式を挙行した。北高根沢村では次いで昭和三年三月二八日の村会で「北高根沢村尋常高等小学校ノ御真影奉安所建設ニ関スル件」が議案として提出された。書記が内容を説明したのに対し、一三番議員渡辺栄は次のように発言している。
奉安所建設ノ事業ハ村ニ於テ建設スルガ理ナルモ、加藤正信ノ芳志ニヨリ設立シ得ラルルハ誠ニ喜バシキ次第、尚村民トシテ公共事業ニ尽力セラルルコトハ最モ希望スル所ナリ、速力ニ建設ノ決議ヲ望ム
直ちに採決され、建設が可決された。その後、一七番の小林芳樹は建設に当たり次のような希望を述べた。
特志家ニヨリ奉安所ヲ寄付セラルルコトハ誠ニ美挙ニシテ、本村ノ誇リトスル所ナリ。建設ノ点ハ一三番説ト同感ナリ。工事ニ関シテハ、誠意ヲ以テ工事ニ注意シ、監督ヲ怠ラズ、或ハ委員ヲ挙クルカ若クハ事業ニ精通スル人ヲ依頼スルカ、何レニシテモ誠意ヲ以テ寄付者ノ意ニソフ如ク、決行セラルルコトヲ希望ス
と、今後の建設計画、建設に当たっての人選などについて遺漏のないように希望を述べている。当時の奉安所建設には特志家、有力者らの寄付といった形で建設されているのが多い。このようにして北高根沢尋常高等小学校の奉安殿は昭和三年五月一三日に地鎮祭が行われ、一〇月二日に御真影の奉戴式がとり行われた。当日秋元校長、菅又助役(村長代理)が県に出張し午前一一時県会議事堂で「御真影」を拝受し、自動車で午後〇時四五分学校に到着、奉安殿に安置して拝戴式をあげている(北高根沢尋常高等小学校「沿革誌」)。同村内の花岡尋常小学校も昭和三年一一月一〇日の即位大礼記念として一、一七七円で奉安殿を新設し、「御真影」並びに勅語謄本及び詔書類を収めた(注昭和二一年八月七日撤去)。
奉安殿の建設はその後、昭和八年から九年の皇太子誕生、一二年の国体明徴運動の時期に建設されている。このように詔書、「御真影」の神聖化に伴い奉安殿の建設はすすみ、天皇崇拝の日常化、地域化が拡大していった。いかに急いでいる時でも奉安殿の前では拝礼が強制され、怠った時は先生から叱責をうけねばならなかった。奉安殿は学校にあって異様な近寄り難い存在となっていた。
図44 花岡小学校の奉安殿(花岡 菅又剛三郎提供)