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上高根沢女子青年学校

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 女子青年学校も、青年学校と同様の歩みをたどってきた。その歴史をみると、大正三年(一九一四)一一月一七日学校の前身は上高根沢尋常小学校に併置され、上高根沢裁縫補習学校と称した。大正一一年四月一日県の実業補習学校準則により学制を改正し、実業補習学校として続いていたが、昭和一〇年(一九三五)四月一日に廃校、同月同日北高根沢村立上高根沢女子青年学校を設立した。教育目標は、青年学校令に基づくもので青年学校と同じ内容で心身の鍛練、徳性の涵養、職業、実際生活に必要な知識技能を授けるとなっている。
 教育方針は昭和一四年に出され、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」の趣旨をうけてだされたが、そこには次のような事項があげられた。
 
  一、我ガ建国ノ精神ト国体ノ尊厳ヲ明カニシテ、国体観念ヲ明徴ニシ、国民的信念ヲ鞏固ナラシメ、献身的奉公心ノ養成ニ努ム
  二、報徳精神ヲ体シ、至誠ヲ以テ事ニ当ル人物タラシメンコトニ努力ス
  三、勤労愛好ノ習慣養成ニ努ム
  四、個性ヲ尊重シ、実際生活ニ即シテ知能啓培ニ努ム
  五、時局ニ鑑ミ、国民精神総動員ノ本旨ニ基キ、堅忍持久、質実剛健、物質愛護、物質節約ノ徹底ニ努ム
 
 この項目を通してみると、特に主柱になるものは政府が展開した国民精神総動員運動で、その具体策が国体観念を強固にした報徳思想であった。太平洋戦争が勃発すると、訓育面では国体観念の養成に主眼がしぼられ、奉安殿の参拝、国旗掲揚、伊勢神宮と宮城遥拝、神社参拝、戦死者の墓参と清掃の実施が求められた。消費、愛国については廃品蒐集、生活改善があげられ、その他出征兵士の送迎など内容は戦時色をおびてきた。昭和一八年の、努力すべき点としては大東亜戦争下、女性の担当すべき仕事の重要性を認識し、実現すべきものとして、食糧増産、戦時生活の確立をかかげている。
 昭和二〇年に入って教育方針、訓練方針はより戦時色を強めてきた。方針をみると「悽愴苛裂ナル戦局ニ鑑ミ、国民総蹶起シ、一億特攻体当リノ決意ヲ固メ、食糧増産、貯蓄増強ニ驀進セシム」となっており、訓練方針も「時局ニ鑑ミ、女子トシテ防空防護、救急法、保護衛生ニ関スル訓練ノ徹底ヲ計ル」と厳しい具体策を打ち出した。
 しかし生徒たちは青年学校の本旨を忘れ、従来の裁縫補習学校時代の気風から未だ脱することが出来なかった。普通学科、体育学科を好まなかったので、学校としては教授内容の郷土化、実際化に努め、出来るだけ学習面への興味を喚起させようと努力していた。しかし時間表をみると(表40)家庭科が全時間数の六六パーセントと圧倒的に多く、女子教育の主体が那辺にあるかがうかがえる。職員組織も五人中専任二名は裁縫科の教師で、他の三人は兼任となっており、家庭科重視はいなめぬ現実となっていた。二〇年のころは日誌でみると勤労奉仕的な農作業が多く、やがて食糧増産隊が結成され、増産を通して国土防衛に当たるということになった。
 
表40 訓練科目と時間数
普 通 科本   科
訓練科目 一学年 二学年 一学年 二学年 三学年
修身及公民  46   46  46   46   46
普通学科  161   161  161   161   161
職 業 科  23   23  23   23   23
家 庭 科  546   546  546   546   546
体 練 科  46   46  46   46   46
  822   822  822   822   822

史料編Ⅲ・1142頁より作成