昭和一九年八月三一日現在の栃木県への疎開状況は表42のようになっており、宿所は圧倒的に寺院が多かった。その中で塩谷郡は他郡と異なり温泉旅館か郡内の九〇パーセントを占めていた。これは藤原町の鬼怒川、川治温泉、塩原町の温泉旅館が主であった。高根沢町域内には熟田村に西桜国民学校、北高根沢村に愛宕国民学校が疎開した。
熟田村に疎開した西桜国民学校は最初、昭和一九年八月に塩原町大網温泉に疎開した。この地がその後、環境面でおもわしくなく一〇月になって塩谷郡の熟田村、矢板町、泉村に分散することになった。熟田村では狭間田の小野家に女子約二〇名、伏久の広林寺に約二五名の男子が疎開した。学童たちは常に望郷の念にかられていた。伏久に疎開した男の子は、当初「鉄道線路をみると、この線路を歩いて行くと家に帰れるかなあ」と、烏山線を深い思いをこめて眺めていたという。息苦しい集団生活の中にあって広林寺の男子生徒は、年二回程度外泊が許され、近所の家に二名くらいに分散して泊まり、御飯を腹一杯たべた思い出が強く印象づけられていた。学校では地元の子供たちとの交流は少なく、近所の農家への麦ふみ、田植えの手伝い、田草取りなどで気分を晴らすことができた。女子は熟田村の小野家に疎開し、時々「およばれ」などで各家庭に二人から三人ずつで遊びに行ったこと、草むしりの手伝いをし、その後、きゅうり、トマトをまるかじりしたことが五〇年後の今日に至っても脳裏に焼きついているという。
北高根沢村には港区愛宕国民学校の生徒約一五〇名が昭和一九年八月に疎開した。生徒たちは初め宝積寺駅近くの定専寺に疎開し、その後宇津救命丸宅、富士乃屋、山本 渡宅に分宿、さらに浄蓮寺と見目 清宅に分かれていった。疎開先の人員は、当時の先生の記憶からは、救命丸宅八〇名、藤田宅(富士乃屋)三〇名、浄蓮寺四〇名、見目宅二〇名、山本宅一五名となっている。
疎開した当初、定専寺の生活に慣れない上に駅の近くといった環境で、だいぶ郷愁にさそわれたらしい。汽車が通るたびに家族への思いをつのらせていた。通過する汽車の汽笛を聞いては家族を思い出し一人が「お母さん」といって駅に向かって走ると皆が泣きながら汽車を追ったという。その後、前田方に疎開した男の子は、正面にみえた「筑波山」をみるにつけ、向こうは東京だあーと、望郷の念にかられていた。
しかし、生徒たちはしだいに疎開の生活に慣れてきた。山本方での思い出をみると、「庭の池を干してとれた川魚を焼いてくれたり、裏庭の竹の子を煮てくれたり、お饅頭を作ってくれ」食べ物には不自由しなかったという。しかし、いなごの佃煮はたべられず、帰りに川に流したという思い出が強くのこっているという。
教師になって二年目の河部先生は生徒を引率して救命丸の寮に疎開した。当時、つらい思い出として、ノミ、シラミ、ブヨに苦しめられたと述懐している。先生方は、虫に刺され化膿したりした生徒のために大変苦労したようであった。このように田舎の生活に慣れずにつらさを訴えている一方で、疎開生活にも慣れ、土地の子どもたちとも親しくなり、川で泳いだり、山での栗ひろいと良い思い出も心に残っている。何かの記念日には婦人会の人たちがお土産をもってきてくださったという。昭和二〇年(一九四五)二月二五日には卒業する女の生徒たちが企画して宇津さんの広間でお別れ会を開いた。歌をうたい、劇をして部落の方々、校長先生も参加され、土間までいっぱいになるほどの盛況ぶりであった。時期がたつにつれて地域との交流も深まっていったが、三月六日に帰京した生徒は間もなく、一〇日の東京大空襲にあうなど厳しい戦局が待っていた。
河部先生たちは敗戦を各疎開先の家でラジオ放送で知った。その後は次々に東京の家族のもとへ引き揚げる生徒があって、宇津さんの寮は閉められた。残った生徒は見目さんの家へ移り、見目家に世話になった生徒は七名から八名になり、最後は山本さんの家にまとまった。最後は一一月ごろで、河部先生も一一月には東京に帰られた。ここに一年余にわたった学童集団疎開は終わりを迎えた。
図46 愛宕国民学校の疎開児童・生徒と冨士乃屋の人たち(鎌倉市 長谷川博康提供)
表42 帝都学童集団疎開郡(市)別宿舎調(昭和19年8月31日現在)
郡 市 別 | 寺 院 | 学 校 教 会 | 事務所 集会所 | 普 通 旅 館 | 温 泉 旅 館 | 飲食店 料理店 | 民 家 | 合 計 |
河 内 郡 | 7 | 1 | 8 | |||||
383 | 88 | 471 | ||||||
上都賀郡 | 20 | 3 | 23 | |||||
1,223 | 203 | 1,426 | ||||||
芳 賀 郡 | 20 | 2 | 22 | |||||
1,280 | 104 | 1,384 | ||||||
下都賀郡 | 12 | 1 | 2 | 15 | ||||
640 | 48 | 93 | 780 | |||||
栃 木 市 | 1 | 1 | ||||||
49 | 49 | |||||||
塩 谷 郡 | 7 | 1 | 39 | 8 | 2 | 57 | ||
348 | 31 | 5,948 | 226 | 105 | 6,658 | |||
那 須 郡 | 41 | 2 | 8 | 7 | 14 | 72 | ||
1,996 | 185 | 355 | 430 | 162 | 3,128 | |||
安 蘇 郡 | 6 | 4 | 10 | |||||
417 | 130 | 547 | ||||||
佐 野 市 | 6 | 1 | 7 | |||||
314 | 103 | 417 | ||||||
足 利 郡 | 10 | 2 | 2 | 14 | ||||
630 | 104 | 151 | 885 | |||||
足 利 市 | 2 | 1 | 3 | |||||
106 | 53 | 159 | ||||||
合 計 | 132 | 9 | 1 | 15 | 39 | 18 | 18 | 232 |
7,386 | 628 | 31 | 642 | 5,948 | 852 | 418 | 15,905 |
注 上段数字は宿舎戸数、下段数字は人員数
「栃木県知事事務引継書」昭和19年11月による
図47 学童疎開での集団生活の一駒(世田谷区 河部美代子提供)
図48 疎開生徒の楽しいひと時(世田谷区 河部美代子提供)