ビューア該当ページ

戦争末期の学校

648 ~ 650 / 794ページ
 サイパン島の玉砕、マリアナ沖海戦で航空母艦の大半を失い、敗戦色が濃くなった昭和一九年(一九四四)後半から二〇年にかけて国民学校高等科生徒の工場動員が始まった。
 阿久津村国民学校では近くの軍事施設とかかわらざるをえなくなった。校務日誌でその状況をみてみよう。昭和一九年五月に清原の宇都宮飛行学校の通信実習に校庭が使用された。翌二〇年に入ると様子はより深刻化した。四月一五日に宇都宮航空厰の伊東少尉が来校し、学校の教室三部屋を貸すことを約束した。一九日には軍曹及び兵士三名が来校、二三日にも航空厰の少尉が来校し、航空厰の一部を国民学校に移動する準備をはじめ、四月三〇日には移転を開始した。校舎の一部が航空廠の工場の一部となった。軍の一部が移動したことで、アメリカ軍の空襲の的になる危険な状況下に学校がおかれたのである。また、陸軍の晴第一九五一部隊の陸軍少尉市村欣平が来校、五月に入ると、一六日と二七日に相次いで常盤第三〇八五七部隊の大隊長が来校した。同部隊の下士官も来校し、学校は鋸二丁、マンノー一丁を貸している。このように、学校には航空厰、陸軍の常盤部隊が駐在し、授業に差し支えるようになった。六月二日には一、二部授業実施と記してあり、二部授業が行われた。これに加えて縁故の疎開児童が戦災をさけて京浜地方から転入してくるようになった。ここに阿久津国民学校の縁故による疎開状況をみると表43のようになっている。表でみるように疎開は各学年にわたっており、四月、八月、一二月、一月と学期の変り目に多く移ってきた。特に八月には四三名という数を示している(「疎開児童名簿」阿久津国民学校)
 当時、我が国は食糧増産が緊急課題となっていた。当然、学校もその一翼を担い農耕奉仕作業が多くなり、特に新たな土地の開拓にたずさわった。阿久津国民学校では昭和一九年四月時点で赤堀台で畑の開墾が行われ、この地の除草には多くの生徒が働いた。二〇年に入ると鬼怒川の河川敷の開墾に一三日間もあたった。校庭の一部も開墾され、校庭はその他村葬会場、軍用馬の検定場にと、楽しく遊ぶ校庭は戦争の犠牲になり生徒たちの夢は戦争の中に消えていった。
 生徒は可能な限りの仕事に従事した。桑皮出荷、干草集荷、甘藷植付、製縄確保運動などに、四年生以下は蝗とり、稲の落穂ひろいと作業にあたった。戦災にこそあわなかったが、教材不足、食糧不足、労働奉仕と生徒の教育環境は全く混乱し、校庭の隅の待避壕は無気味に口をあけ、本来の教育活動は不可能であった。
 
表43 阿久津尋常高等小学校疎開児童一覧(小学校のみ)
18年 19   年20年
12月1月3月4月7月8月9月10月11月 12月1月
1 年42410
2 年222211111
3 年36211215
 42142211
5 仁35210
  義23117
  礼14117
  智112
6 仁11518
  義156
  礼23117
  智235
2112314381171199

「疎開児童名簿」より作成