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敗戦と村民の動き

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 昭和二〇年(一九四五)八月一五日、天皇はラジオ放送を通じてポツダム宣言の無条件降伏をうけることを発表し、ここに一五年間も続いた戦争は終った。本土決戦を肌に感じ、一億玉砕の気持でいた国民にとってこの放送は余りに衝撃的であった。昨日までわがもの顔で上空をとんでいたB29も、グラマンもその姿はみせず、空襲のサイレンもならず、全身の緊張感は一挙にゆるんでしまった感を強くした。いままでいだいていた日本国民の価値感は崩れ、ただぼう然と毎日を送るありさまであった。陸軍大臣阿南惟幾の自殺、鈴木貫太郎内閣の総辞職、一七日には東久邇宮稔彦内閣という皇族内閣が出現した。
 栃木県知事相馬敏夫は、敗戦の一五日に敗戦はまことに悲痛の極みであるとしたうえで、いつまでも悲嘆にくれず、さらに大きな苦難を克服することを訴え、「私共はこの際、国体護持、民族確保のためあらん限りの努力と自重とをいたすべきである」との布告(史料編Ⅲ・四二七頁)をだしている。
 当時、「国体護持」が一つの合言葉のようであった。八月二〇日の隣組回覧板には喜連川警察署からの文書があり「大東亜戦争終結にさいし、三千年の国体を護持する道」を進むため各人が守るべきことを示している。その内容は、聖旨を奉じ軽挙妄動、自暴自棄の行動にでないこと、農民は食糧の重大性を認識して増産、供出に努力することをのべ、敵(アメリカ軍)が駐屯することについては流言がましきことを慎しむこと、また金融機関は大蔵大臣の声明通り預金者の要求に応ずるからあらぬ心配をしないことなどがしるされている。八月二七日開かれた阿久津村の常会の内容をみると麦類、馬鈴薯供出の促進のこと、戦災者、疎開者で帰農する人や帰還軍人の食料増産に協力すること、連合軍本土進駐前後の心得などが話しあわれた。八月一五日からしばらくの間はまだ大地に足のつかない生活のなかでアメリカ軍の本土進駐が大きな問題として国民のあいだの話題となっていた。
 不安のなか、戦争終結の現実がいろいろな形で現われてきた。北高根沢村では九月二八日に戦争終結奉告祭なるものが津島神社でおこなわれた。一〇月に入ると村長から部落会長あてに防空壕施設の処理について連絡があった。戦争中は敵の空襲から身を守るため、長期戦争にそなえるために空地のいたる所に防空壕がほられた。しかし戦争の終結にともない、掩蓋式公共の防空壕は交通保安等を考えて撤去し、埋めることにした。また横穴式公共防空壕、トンネル式の防空壕は耐久性あるものは倉庫に利用し、その他のものは閉鎖するよう連絡があり、村内の戦争遺物は徐々にとりのぞかれていった。