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進駐軍と村民

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 国民が心配していた連合軍の進駐は八月二八日厚木航空基地に先遣隊がつき、三〇日にマッカッサー総司令官が厚木に到着して始まった。次いで九月二日の降伏文書調印により日本は完全に占領下におかれた。北高根沢村、阿久津村の学校などに駐屯していた常盤部隊も九月二日に復員式をあげ、農村から兵士の姿は消えていった。また在郷軍人分会の解散式が九月一六日におこなわれ軍事色はこの時点で消滅していった。当時の巷での話題は専ら連合軍の進駐におかれていた。『連合軍の進駐について』と題して出された回覧板(史料編Ⅲ・一一六八頁)によると、「進駐前の心得」では米軍の進駐に住民は冷静に協力すること、また流言などにまどわされず、大国民の態度で官憲を信頼し家業に精励することがあげられている。「進駐後の心得」では、外国軍人に個人で直接折衝することをさけ、求められたときは、毅然たる態度で接すること、とくに婦人は日本婦人として自覚をもって外国軍人に隙をみせないこと、「フシダラ」な服装をしないこと、人前で胸をあらわにしないこと、夜間は勿論、昼間でも人通りの少ない場所はひとり歩きしないこと、服装もモンペを着用することなど細かい注意をして、徹底的に警戒心をあおった。阿久津村国民学校でも九月一八日、二一日に進駐軍に関する常会、一〇月四日には住民に対し進駐軍に関する講話などがおこなわれた(「昭和二〇年度校務日誌、阿久津村国民学校」)。
 栃木県への進駐は一〇月の村常会で一〇月七日頃と連絡があったが、実際は一一日で、一七〇名が宿舎設営の先遣隊として進駐し、本格的には一四日から三日間で六、〇〇〇名の進駐が完了した。こうしてサンドリ大佐を部隊長としてGHQ栃木軍政部の占領統治がはじまった。大佐は表敬訪問した相馬県知事、入江宇都宮市長に対し、食料や燃料の需要について説明を求め、県政への理解を示す一面、占領軍としての立場を強調し、民間にある武器の一掃にあたった。
 武器の引き渡しは連合軍最高指令部G・H・Qの指示にもとずき行なわれた。日本人の一部には日本刀を進駐軍に持参し売却、または菓子、煙草と交換する者もあれば、進駐軍に家宅捜索され隠してあった日本刀が多数発見されたことが公けになることもあった。G・H・Qはあらためて連合軍司令官の名で武器引き渡しを徹底するように命令を発した。命令は県から各市町村長へ伝えられ村長はその趣旨を各部落会長に連絡している。
 日本人、軍人のシンボルである日本刀の没収の徹底は当然国民の心をつよく打ち、不安や動揺も生れた。進駐軍に対する心の溝やわだかまりは一挙にうまるものではなかった。戦時中、政府は国民の敵愾心をあおるため、米英を「鬼畜米英」とよんでおり、戦争に敗れれば日本人はみな殺しにされるとか、男は全員捕虜にされ、女・子供は乱暴され殺されるとかさまざまな噂がながれていた。アメリカ軍進駐の日、町に住む女性の中には戦争が終って疎開地からわが家にもどった人々も、進駐軍をおそれて再び疎開する動きもみられた。しかし進駐軍との関係は日がたつにつれ落着いていった。